民主主義とは「フィクション」である。

  「民主主義ってなんだ?」と問われれば、それはひとつの「フィクション(=擬制)」としかいいようがありません。「フィクション」といって難しければ、「~べきであることが想定されている」ということです。

 どういうことか、日本国憲法の前文を通じて確認してみましょう。

 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

  ここでいわれているのは、国の政治は、国民の権威に基づいた権力を代表者たちが用いて、その結果として生まれる福利は国民が享受すべきである、という循環です。

 これは、国民(=主権者)は自らの権利を代表者(政治家)に一時的に預け、自分たちの代わりに働いてもらうというのが民主主義、もっと正確にいえば、「代議制民主主義」や「代表制民主主義」と呼ばれる政治の基本形態でもあります。

 ここでは、共同体(=国)のことは、その構成員(=主権者)で決めて、結果的に決まったことは共同体の構成員の全員が従うことになることが想定されています。でも、それは実際には多分にフィクショナルな想定です。

欠陥だらけの代議制民主主義

 考えてみましょう。代議制民主主義のスタートは、有権者たちが自分たちの代表を選ぶところから始まるとします。そうでないと代議制民主主義はそもそも起動しません。そして、この代表を選ぶ機会こそ、選挙ということになります。

 ただ、この選挙で選ぶこと自体、容易ではありません。なぜなら、基本的に代表者は代表することを仕事としますから、選んでもらうことなしには、自分たちの義務が成し遂げられません。だから何としてでも当選したいと思う。そうすると、なるべく有権者に票を入れてもらえそうなことしか約束しません。もっといって、「国民の福利」実現のために働くわけですから、有権者がこういうことを実現してほしいと願うようなことを言うのが当然です(これが『選挙公約』、つまり選ばれたらこう働きます、という約束事の束になります)。

 ただ、結果として有権者が望んでいる、耳あたりのよいことしか言わないようになります。もっと問題なのは、どの政治家も真剣に選挙で票を投じてもらおうとすれば、いうことが似たり寄ったりになってくることです。国民の「福利」なるものはAKB48のメンバーほどの多様性には耐えられません。

 似たり寄ったりだと、では何を基準にしてそもそも選んだらよいかわからなくなります。各党や候補者の選挙公約を見てみましょう。「安心」とか「安全」とか、「強い」とか「元気な」とか、そこに並んでいるのはポジティブな形容詞ばかりです。あるいは、同じことを違うように表現した文言でしかありません。そこで政策で選べといわれても、選びようがありません。大勢と違う、ちょっと目を引くような公約を掲げている人たちもいるかもしれませんが、それはそもそも実現できそうにないことばかりです。つまり、「信託」しようにも、なぜ、どのように「信託」したらよいか判然としない。でも、それは国民の福利を実現するのが政治家の任務なので、致し方ありません。これが選挙から成り立つ現代の代議制民主主義の第一の欠陥です。

 第二の欠陥は、やっとこさのことで選んだこの代表者たちが、自分たちの思う通りに働いてくれないこともあるということです。その理由はいろいろです。代表者も人間ですから、心変わりすることもあるでしょうし、自分たちの信念も持っています。「喉元過ぎれば」ではありませんが、当選した時の約束を反故にして、後は自由にやらしてもらいます、という政治家もいるかもしれません(もっといえば、当選後の自由度は約束が曖昧であればあるほど、高まることになります)。あるいは、国会にはそもそも数百人単位で代表者たちが集い、その過半数がなければ法律にならないわけですから、そこで仲間作りに失敗して、自分が約束したことを実現できないということもあります。国政で用いられる「権力」がそもそも間違ったように使われてしまうかもしれない、あるいは、そもそも使われないかもしれない。これが代議制民主主義の第二の欠陥です。

 欠陥はまだあります。「福利は国民が享受する」と書いてあっても、生じるのは福利だけではなく、損害もあるでしょう。そもそも選挙の結果がどのような福利をもたらしたのか、それが本当に選挙の結果と直に関係するのか、確実なことはいえません。政策や法律が成り立つのには、国会だけでなく、官僚機構や業界や市民の協力や理解が必要です。しかも、参議院選挙のように、3年に一回の半数の定期選挙で、政権選択に直結しない選挙では、なおさらのこと、判然としません。選挙と、その結果もたらされる福利は必ずしも一致しないというのが、代議制民主主義の第三の欠陥です。

代議制民主主義の欠陥はもっとありますが、ここら辺りで止めておきます。

それでも「人類普遍の原理」である理由

 共同体のことをみなで決めて、その結果にはみなで従うという、代議制民主主義の想定は、実際には機能しないであろう、フィクションにしか過ぎないことは、少し考えればわかることです。みんなで決めるといっても、誰がどこで何を決めたのか、明らかではないからです。だから代議制民主主義は、今も昔も、どこの国でも、批判と幻滅の対象となってきました。

それにも係らず、先の日本国憲法前文には、続けてこう書かれています。

「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」

 ここでは、代議制民主主義はフィクションであるにも係らず、「人類普遍の原理」だと謳われています。実は、代議制民主主義は「フィクションなのに」ではなく、「フィクションだからこそ」、人類普遍の原理なのです。

 言葉遊びのようですが、英語の「フィクション(fiction)」は、もともとラテン語で「形作る(fictio)」という意味から派生してきた言葉です。ちなみに、「フィクション」の反対は「ファクト(fact)」、すなわち「事実」のことです。フィクションとファクトを分けるものは何でしょうか。それは「ファクト」がありのままのものであるのに対して、「フィクション」は、創り上げることができるものであるということです。

 代議制民主主義は欠陥だらけですが、それを修正するだけの余地を残すことを可能にしていることが、人類普遍の原理としての地位を与えられている理由かもしれません。

 選挙で、政治家や政党が選択しづらいとか、曖昧な文言しか並べないのであれば、それを問いただす権利を持っているのは、「権威」の源泉たる主権者です。選挙時の約束が果たされないとしてなぜそうなのか説明を求めたり、次の選挙で票を入れないということで罰することを可能にしています。選挙で自分の求めることが可能にならなかったのであれば、選挙以外の方法で政策実現のために運動することも可能です。

 代議制民主主義は「フィクション」であるがゆえに、様々なことを予め決めないでおくような、「遊び」の部分があります。もし代議制民主主義が「ファクト」であれば、そこに有権者が介在できる「遊び」は不要で、「事実」のみが重みを持つ世界であるということになります。そうではなく「フィクション」の世界は、積極性や創造性、もっといえば、この世を善くしていくという可能性を常に残し続けていくことになります。「愛」というフィクションと同じで、それはとても曖昧で不確かなものであるかもしれないけれども、それをいかに実現し、実体のものとしていくかは、人の行動力や創造力にかかっているのです。

 民主主義がフィクションである限り、それを理解したり、運用したりするのはいうほど簡単なことではありません。これまでみてきた具体例のように、代議制民主主義の持つ高度にフィクショナルな正確を「欠陥」とみなすか、「可能性」とみなすかも、人によって違うでしょう。しかし、「共同体のことはみんなで決めてみんなで従う」というフィクションから逃れるのは至難の業です。

 だから「ファクト」の重みに耐えかねて、この世をどうにかして変えていきたいという人のために民主主義は「フィクション」であり続けるのです。それが体得できた時、民主主義の欠陥は可能性へと変わることになり、引いては個々人の「福利」は増していくことになります。

(2016年6月13日)

 

 ※この文章は「ポリタス」に寄稿を予定していたものですが、これを別バージョンとして、元バージョンを本ブログで公開しました。