「くじ引き民主主義」を考える。

去る統一地方選挙では、選挙の結果云々よりも、その前から無投票選挙の多さが注目されていた。千葉県や埼玉県などの首都圏でも無投票選があったから、地方に限った話ではない。道府県議選では選挙区の33.4%、総定数の21.9%が無投票で選出され、これは記録の残る1951年以来の高水準という。

 

 地方自治体が果たすべき役割と期待がこれまでになく増す中、その民主主義が空洞化しているというのは、笑うに笑えない状況である。もっとも、人口流出といった構造的な流れや、議員のリクルートメントやインセンティブをどう育むかなどの制度的問題、各党の選挙戦略などが複雑に絡み、簡単な解決策は見出せそうもない。

 

ただ、旧来の代議制民主主義が空洞化しつつあるのは、どこの先進諸国でも一緒だ。そこで、ヨーロッパの運動家や政治学者らが注目しているのが、「くじ引き民主主義」だ。

 

 なぜ「くじ引き」なのか。古代ギリシャ古代ローマ、あるいはルネッサンス期のイタリアまで、近代以前の民主政治では、統治者の選出にくじ引きが普通に用いられていた。古代ギリシャでは、行政官や裁判官を含む公職の約9割がくじで決まった。政治学者E.マナンの見立てでは、近代になって選挙を通じた代議制民主主義が採用されたのは、民主化を嫌った貴族層が自らの支配を正当化するための方策だったからだという。つまり、統治者と被統治者の同一性と平等性を前提にする「くじ引き」民主主義は、失われた民主政治のもうひとつの発展経路だったのである。

 

 夢物語をいっているのではない。21世紀に入って、既存の民主主義が機能不全を起こしているとされる中で、再発見されたのは、このもうひとつの民主政治だった。アイルランドでは2012年に憲法改正内容を討議する「憲法会議」が設置されたが、その構成メンバー100名の過半数を占めたのは議員ではなく、くじ引きで選ばれた有権者66人だった。経済危機で破綻の憂き目にあったアイスランドでも、市民の発案でもって、2010年にくじ引きで選ばれた市民25人が新憲法制定会議に陣取った。

 

 その他にも、(西)ドイツやアメリカの自治体では1970年代から、やはり抽選で選ばれた「市民陪審員」が政策形成に携わる制度や、デンマークでは倫理的な問題について討議する「コンセンサス会議」などで「くじ引き」が用いられている。カナダのブリティッシュ・コロンビア州では、抽選された市民が討議して決めた選挙制度を住民投票にかけるといった試みもあった。また自治体財政の支出の一部を市民自らが決めるといった制度を整えた国もある。

 

こうした動きを受けて、やはり地方議会での候補者不足に悩むフランスのあるシンクタンクは、地方議会の1割をくじ引きで選ばれた住民に割り当てるべき、と提言している。これらに共通しているのは、行政ではなく、飽くまでも立法のプロセスを一般有権者に開放することにある。

 

 日本でも、司法の場では裁判員が抽選で決められている。ならば政治でも同じことができないわけがない。「衆愚政治に陥る」「ポピュリズムになる」といった指摘もあるかもしれない。裁判員制度が決まった時、死刑が増えることになるという指摘と同じだ。「プロ」に任せておいた結果が無投票選の増加なのだとしたら、もはや選択の余地はない。「能力」ではなく「資格」を条件にして、民主主義の空洞を埋める必要性に迫られている。

 

もちろん、全ての公職を多忙な市民に委ねることはない。古代アテネでも、軍事や財務に係るポストは専門家に任せられた。民主政治は単に市民の代表の定期的な選挙だけに還元されるものではなく、独立した司法や専門家委員会や、住民投票といった多種多様な回路が交差して成り立っている。そのメニューの中に「くじ引き民主主義」があっても、悪くはないだろう。

(『北海道自治研究』555号より転載)

 

(4月27日追記)

 政治学理論家のヤン・エルスターも、「子供が能力じゃなくてくじ引きの結果たまたま学校に入れなかったと聞いて安心した」というある親の証言を引いて、「合理的選択論」などより、くじ引きの方が選択のためにはよほど公正=効率性が高い、と指摘します。

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 ちなみに日本でも総理大臣と衆議院議長をはじめ、公職者の選出には「くじ」が用いられる場合もあることを定めています(議院規則の第18条など)。こうみてみても「くじ引き」は決して荒唐無稽な選出方法ではないことが解ると思います。