札幌「シアター・キノ」で『復讐者たち』(7月31日公開)の解説トークを行いました。

市民が支え来年30周年を迎える札幌「シアター・キノ」。単館系・インディペンデント系を含め、良質な作品を札幌市民に届けています。

これまで何回かアフタートーク(最初は2006年だった記憶も)を依頼されてきましたが、今回『復讐者たち』(原題"Plan A"ドロン・パズ&ヨアヴ・パズ監督)の解説トークを頼まれたので、以下にその内容を記します(やや批判的なことも言っています)。

************************************

100分ちょっとの映画ですが、古典的な二重スパイ的なプロットを活用しながら、最後まで展開を読まさせない、とても濃厚で展開の早い作品だったと思います。

さて、余り映画の余韻を邪魔してもいけないので短く、ヨーロッパ政治の研究者として、この映画の背景や意味する所を簡単に、3つほど説明できればと思います。支配人の中島洋さんからは20分は喋ろ、と言われてるのですが、それよりは少し短めにしたいと思います。

実はストーリー以上に、この映画は色々な面からみて興味深い作品だと思います。

映画は戦後直後(ロッセリーニ風にいえば「ドイツ零年」)の、ドイツ人への復讐を計画していたことを描いています。強制収容所を中心に――私もアウシュビッツオシフィエンチム)に行ったことがありますが――、600万以上ものユダヤ人が殺されたことはよく知られていますが、ユダヤ人が、この時代に主体的にそういうことを企てていたということはそれほど知られている事実ではありません。水道管に毒を流してドイツ人を殺すという計画があったことは史実で、この映画では描かれていませんが、やはりナカムのメンバーたちが、ドイツ兵の収容所のパンに毒を仕込んで2000人ほどがヒ素中毒にかかったということも記録されてます(実際の死者数は記録なし)。戦後の混乱の中で、ユダヤ人がドイツ人に復讐するという光景は珍しくありませんでした。

キース・ロウ『蛮行のヨーロッパ』という、この時代のヨーロッパを記録した本から、ドイツ人に復讐したユダヤ人の証言を引用します。

「私たち皆が参加した。甘美だったよ。唯一私が残念に思うのは、もっとやらなかったということだけだ。何だってやった。奴らを列車から振り落とした(略)私は楽しんだよ。当時、私たちのうちの誰であれ、味わうことのできた満足は他になかったんだ」(157頁)

映画でも主人公が「復讐をしたい、その資格があるはずだ」という場面が出てきますが、復讐したいというのが、一般的な感情だったことがわかります。

ただ、映画は、これまで単に一方的な被害者として描かれていたユダヤ人たちが、実際には加害者でもあった、ということを言っているわけではもちろんありません。色々と仲間内で行き違いはありながら、最終的にはドイツ人を、筆舌に尽くしがたい苦渋を味わったユダヤ人の側が赦す、という、戦争で生き残ったユダヤ人の道徳的優越性を描くものでもあるわけです。

子どもを殺されたら、あなたはどうしますか、という問いが最初と最後に出てきますね。「復讐」なのか「赦す」べきなのか、もちろん赦すべきだ、というメッセージが押し出されてます。以前、パリのテロで家族を殺された父親が、テロリストに「憎しみという贈り物を君たちにはあげない」という文章を発表して大きな反響を呼びましたが、この映画が発する倫理的なメッセージも同じでしょう。

ただ、これは高度に政治的な映画だということでもあります。戦後、少なくとも西ドイツは、法的にはともかく、道徳的にはホロコースト(ショア)が徹底的な歴史的反省の対象になったのは事実です。ナチ時代の反省こそが戦後ドイツの歴史を作ってきたといっていいくらいです。ドイツに行くとわかりますが、そこらかしこに反省と追悼のモニュメントで溢れています。

ただ、問題はそうすると、ユダヤ人は一方的な被害者として捉えられることになるわけです。法学に修復的司法論という分野がありますが、そこでは加害者と被害者が固定化されてしまうと、むしろ加害者だけが反省するという特権的な地位を得てしまうので、一方的な関係はよくない、という議論があります。反省するかしないか、赦してください、というかいわないか、というのはかつて自分に被害を与えた側の一存にかかっているからですね。それがない限り被害者は、救われないという意味で、加害者の方が相手に優位にい続けてしまうという皮肉です。あれですね、「ねえ、あなたあやまってよ」という奴ですが、あやまるかどうかは相手次第なので、余計腹が立つというのは、普段の日常生活でもある場面ではないでしょうか。

だから、ナチを描く映画では常に受動的な被害者として描かれてきたユダヤ人に焦点を当てた上で、復讐をすることはできたのだけれども、自分たちはそれを選択しないで相手を赦すという主体的な選択をしたんだ、ということを描くことで、被害者としてのユダヤ民族の尊厳を回復するという癒しの話でもあるんです。それがひとつです。

二つ目は、歴史をどう記憶するかという問題からの視点です。

実は、ショアについての記憶が世界で共有されるようになったのは、比較的最近のこと、1990年代初めくらいからのことです。その背景には、冷戦の終結があります。ここから、それまでは東西陣営のイデオロギー闘争で覆いつくされていた歴史の記憶が一気に噴出することになります。例えば、旧共産圏のポーランドでは、冷戦時代の西ドイツに対しての公式的記憶はファシズムと資本主義の権化として捉えていました。さらにアウシュヴィッツは、ユダヤ人を虐殺した場所ではなく、ポーランド人が殺された場所として追悼されてきました。ところが、冷戦が終わると、今度は冷戦中のソ連の行為が新たな記憶として浮上してきます。その代表的な歴史の記憶が「カティンの森」事件ですね。戦中にソ連兵がポーランド軍人2万人を虐殺したという歴史です。これはポーランド人のアンジェイ・ワイだという監督が映画化もしていますが、冷戦中はナチスの仕業とされていたのが、その後ロシアの情報公開で、実際にはソ連がやったことということが明るみになって、歴史問題になっていきました。こうした例は事欠きません。トルコのアルメニア人虐殺であるとか、スペインのフランコ体制の時の迫害であるとか、パンドラの箱を開けたかのように、世界各地で歴史認識論争が噴出します。日本も、中国や韓国との関係において、同じことを経験しています。

そうした中で、政治的にこうした歴史を利用しようという動きも出てきます。中国は南京大虐殺を記念する日を2014年に制定しましたし、ロシアではナチズムとソ連時代を同一視することを最近、法律で禁止しました。領土の変更があった東アジアと東ヨーロッパに集中していますが、こうした歴史認識論争は現実の国際政治を動かすようになって、記憶の「安全保障化」などということも言われたりするようになりました。つまり国際政治そのものが歴史的な記憶から動くようになっているのが、今の時代です。

実はこうした歴史認識に、映画も一躍かっていて、黒人奴隷を描いたスピルバーグの『アミスタッド』とか、フランスのインドシナ支配を描いた『インドシナ』といったその国の負の歴史を描く作品が90年代から2000年代にかけて多く公開されています。そうした観点から、今日の映画をちょっと批判的にもみておきたいと思います。

つまり、この映画は観ようよっては、イスラエル建国の歴史を正当化するものでもあるんですね。パレスチナの地に祖国を建国するために、むしろ我々はドイツを許さなければならない、というメッセージも何度か出てきます。

ただ、そういう風にイスラエル建国を正当化するということは、今のパレスチナの問題を相対化するということにもなります。監督はイスラエル人ですし、制作にもイスラエルのお金も入っています。一応、ドイツとの合作ということになっていますが、ドイツがメインだったら、ドイツ語の脚本になっていたはずです。敢えて英語の台詞にしたのは、世界に向けて何かと評判が悪くなってしまったイスラエルの正当性をアピールしたいという思惑がないとはいえないと思います。それは、映画を通じた歴史認識論争にイスラエルも参戦してきた、ということにもなります。

最後に、こういう風に純粋に映画を楽しめない時代に、どういう風に歴史とつきあっていったらいいか、ということをお話してお仕舞いにしたいと思います。 

ポール・リクールという、有名なフランスの哲学者がいます。今のフランスのマクロン大統領が学生時代に助手をやっていたことでも知られている人ですが、彼の書いた『記憶・歴史・忘却』という長い本があります。これは、記憶と歴史がどのように議論されてきたのかということについての決定版みたいな本なのですが、彼は人々が和解するためには、最終的に歴史を忘れないといけない、ということをいいます。歴史を忘れてはいけない、と普段習っている私たちからすると意外に聞こえるかもしれませんが、リクールは、むしろ主体的に忘れたふりをしろ、と呼び掛けるんですね。引用すると、「気遣う記憶力の地平にある気遣わない記憶力、それは忘れやすい記憶力、そして忘れられない記憶力に共通の魂である」と書いています。簡単にいうと、互いに傷つけあう歴史は、歴史に値しない、といっているわけです。

歴史は何のためにあるのか、それは自分たちの傷をなめたり、加害者を糾弾したり、ずっと被害意識を引きずるためにあるんじゃない、というのがリクールの主張です。そして、歴史や記憶は他人とよりよい未来を作るために用いられるべきだ、といいます。だから、歴史を振り返る作品を見る時、それは果たして、未来の人類の共生のために、どのようなメッセージを打ち出しているものなのか、ということを基準のひとつにしてみるのがいいんじゃないかな、と私は思っています。

ご清聴ありがとうございました。