先の2026年6月5日に、同志社大学にアメリカMAGA派の論客で、JDバンス大統領とも近しい政治学者のパトリック・デニーン教授を迎えました。

コーディネーターに法学部の飯田健先生、ディスカッサントはグローバル・スタディーズ研究科の三牧聖子先生と小職が務めました。
下記が、そのうち小職の発言部分です(時間の関係上、実際は一部のみ発話)。
実は、同志社大学の教育理念のひとつはキリスト教に基づいた「自由主義」ですので、今日はデニーン教授を日本に迎えるのにもっとも相応しい場所ではないかとも思っています。さて、今日、リベラリズムは政治の右と左から批判されるようになりました。右からは、行き過ぎた個人主義をもたらして社会を解体させたと批判され、左からはエリート主義的で市場主義的だと指摘されるようになりました。関連して、デニーン教授が2018年に出版された『リベラリズムはなぜ失敗に終わったのか』はここ日本でも大きな反響を呼びました。哲学者ニーチェは『黄昏(The Dawn)』で、自由主義は制度になった途端に自由主義であることを止める、と書きましたが、まさにそうしたことを現代社会においても生まれていることを指摘した本でもあります。
本日は、その続編ともいえる『レジームチェンジ』の内容の一端をお聞きすることもできました。この本は近く邦訳も出版されることと思いますので、私からは『リベラリズムはなぜ失敗に終わったのか』について、敢えていくつか疑問を呈するということで、三点ほど、発話させて頂きたいと思います。
ひとつは、果たして現代社会の現在の窮状をもたらしているのは、本当にリベラリズムのせいなのか、ということで。デニーン教授は、リベラリズムの経済、社会、文化、教育の各領域における原罪(original sin)を見事に、非常に説得的に指摘しています。ただし、それら各領域での展開とリベラリズムの直接的関係は必ずしも、明瞭ではないように感じます。
例えば、ドイツの社会学者であるアンドレアス・レクヴィッツという人がいます。彼の著作であるThe End of Illusions(日本の邦訳は『幻想の終わり』)やThe Society of Singularities(『独自性の社会』)で、マックス・ウエーバーの理論を踏まえて、現代社会は「一般的なもの(general)」なものではなく、「特別なもの(singularity)」が重視されるようになったために、消費主義や共同体の解体が進んでいると判断しています。つまり、現代社会の課題や苦難というものは、必ずしもリベラリズムという思想に寄らずとも、説明できるということになります。つまり、リベラリズムではなく「近代化」、あるいはヘーゲルのいう「世界精神(Weltgeist)」という概念でもって、デニーン教授が指摘されている現代社会の困難は説明できてしまうかもしれない。そう考えると、リベラリズムが本当の敵として認定されるべきなのだろうか、という疑問がわいてくるわけです。私はヨーロッパ政治が専門ですが、ヨーロッパ大陸では「リベラリズム」という言葉はもともと人気のある言葉ではないということもあって、リベラリズム批判を通じた現代社会批判はさほど存在しません。もしかしたら、Alain de Benoitという右派知識人がいますが、彼の立場と似ている部分はあると思います。ただ彼は宗教的なバックグラウンドは持っていませんので、やはり異なる部分があります。
そうした意味では、アメリカの文脈を踏まえる必要はありますが、デニーン教授のリベラル批判は現在のアメリカの政治状況を念頭においた「ためにする議論(for the sake of argument)」であるようにも感じられます。
もうひとつは、リベラリズムにも多様な立場や潮流があることを確認しておくことが大事だと思います。例えば、デニーン教授が批判されているJS.ミルは個人の自由が最大限尊重されなければならないとしますが、その理由は、『リベラリズムはなせ失敗に終わったのか』でも強調されている「道徳の涵養(moral cultivation)」が可能になるとしたからでしたし、イギリスで20世紀に誕生した「ニュー・リベラリズム」と呼ばれる思想は、個人が能力を発揮することは共通善(common good)を構築するためだと唱え、そのための国家介入の必要性を唱えました。
あるいはもっと最近の例でいえば、リベラリストを自認するマーク・リラという学者がいますが、彼はより市民的な徳(civic virtue)を持つリベラリズムの在り方を主張していますし、フランシス・フクヤマもリベラリズムの本来の特徴は、アリストテレスのいう「中庸(golden mean)」を目指すことだと唱えています。最近では、イギリス・リベラリズムの旗手であるエコノミスト誌のコラムニストだったAdrian Woodbridgeは、リベラルの過度な能力主義(meritocracy)を諫めています。こうした、リベラルの側からの主張は、実はデニーン教授のものとそう大きく違っていないようにみえます。そう考えると、デニーン教授の哲学も、一部のリベラリズムと共闘できるということになる。よって、論敵とするリベラリズムも実は多様である、ということになるのではないでしょうか。
以上を踏まえると、御著書との対話を通じて見えてくるのは、実はリベラリズムといわれる思想が持っている強靭性(resilience)や多様性(diversity)です。思想史をみれば、リベラリズムの最大の批判者は、ファシズムやコミュニズム、コミュニタリアニズムとともに、リベラリズム自身でもありました。だからこそ、リベラリズムには多様な潮流が存在してきた、と言い換えてもいいでしょう。
以上、リベラリズムが現在の問題の本当の犯人なのか、そしてそのリベラリズムは一体のものと捉えることができるのか、そしてそのリベラリズムを再建できる鍵は、やはりリベラリズムにあるのではないか、という三点を申し上げて、私からの問題提起とさせて頂きます。
デニーン教授の思想のベースは(このシンポジウムでも多く引用されていたように)トックヴィルにあります。では、トックヴィリアンな政治体制がどのように構築され得るのか、それについてはもうすぐ邦訳が出る『レジーム・チェンジ』に詳しく記載されます。
とても実直で快活な教授から、シンポジウムの後の専門家会議で「とても良いコメントだった」と言われましたが、果たしてデニーン教授の思想がどのように発展していくのか、楽しみです(最新作は『アメリカン・オデッセイ』、こちらの方が読み応えがありそうです)。

