パトリック・デニーン教授を迎えて。

先の2026年6月5日に、同志社大学にアメリカMAGA派の論客で、JDバンス大統領とも近しい政治学者のパトリック・デニーン教授を迎えました。

 

コーディネーターに法学部の飯田健先生、ディスカッサントはグローバル・スタディーズ研究科の三牧聖子先生と小職が務めました。

 

下記が、そのうち小職の発言部分です(時間の関係上、実際は一部のみ発話)。

実は、同志社大学の教育理念のひとつはキリスト教に基づいた「自由主義」ですので、今日はデニーン教授を日本に迎えるのにもっとも相応しい場所ではないかとも思っています。さて、今日、リベラリズムは政治の右と左から批判されるようになりました。右からは、行き過ぎた個人主義をもたらして社会を解体させたと批判され、左からはエリート主義的で市場主義的だと指摘されるようになりました。関連して、デニーン教授が2018年に出版された『リベラリズムはなぜ失敗に終わったのか』はここ日本でも大きな反響を呼びました。哲学者ニーチェは『黄昏(The Dawn)』で、自由主義は制度になった途端に自由主義であることを止める、と書きましたが、まさにそうしたことを現代社会においても生まれていることを指摘した本でもあります。

本日は、その続編ともいえる『レジームチェンジ』の内容の一端をお聞きすることもできました。この本は近く邦訳も出版されることと思いますので、私からは『リベラリズムはなぜ失敗に終わったのか』について、敢えていくつか疑問を呈するということで、三点ほど、発話させて頂きたいと思います。

ひとつは、果たして現代社会の現在の窮状をもたらしているのは、本当にリベラリズムのせいなのか、ということで。デニーン教授は、リベラリズムの経済、社会、文化、教育の各領域における原罪(original sin)を見事に、非常に説得的に指摘しています。ただし、それら各領域での展開とリベラリズムの直接的関係は必ずしも、明瞭ではないように感じます。

例えば、ドイツの社会学者であるアンドレアス・レクヴィッツという人がいます。彼の著作であるThe End of Illusions(日本の邦訳は『幻想の終わり』)やThe Society of Singularities(『独自性の社会』)で、マックス・ウエーバーの理論を踏まえて、現代社会は「一般的なもの(general)」なものではなく、「特別なもの(singularity)」が重視されるようになったために、消費主義や共同体の解体が進んでいると判断しています。つまり、現代社会の課題や苦難というものは、必ずしもリベラリズムという思想に寄らずとも、説明できるということになります。つまり、リベラリズムではなく「近代化」、あるいはヘーゲルのいう「世界精神(Weltgeist)」という概念でもって、デニーン教授が指摘されている現代社会の困難は説明できてしまうかもしれない。そう考えると、リベラリズムが本当の敵として認定されるべきなのだろうか、という疑問がわいてくるわけです。私はヨーロッパ政治が専門ですが、ヨーロッパ大陸では「リベラリズム」という言葉はもともと人気のある言葉ではないということもあって、リベラリズム批判を通じた現代社会批判はさほど存在しません。もしかしたら、Alain de Benoitという右派知識人がいますが、彼の立場と似ている部分はあると思います。ただ彼は宗教的なバックグラウンドは持っていませんので、やはり異なる部分があります。

そうした意味では、アメリカの文脈を踏まえる必要はありますが、デニーン教授のリベラル批判は現在のアメリカの政治状況を念頭においた「ためにする議論(for the sake of argument)」であるようにも感じられます。

もうひとつは、リベラリズムにも多様な立場や潮流があることを確認しておくことが大事だと思います。例えば、デニーン教授が批判されているJS.ミルは個人の自由が最大限尊重されなければならないとしますが、その理由は、『リベラリズムはなせ失敗に終わったのか』でも強調されている「道徳の涵養(moral cultivation)」が可能になるとしたからでしたし、イギリスで20世紀に誕生した「ニュー・リベラリズム」と呼ばれる思想は、個人が能力を発揮することは共通善(common good)を構築するためだと唱え、そのための国家介入の必要性を唱えました。

あるいはもっと最近の例でいえば、リベラリストを自認するマーク・リラという学者がいますが、彼はより市民的な徳(civic virtue)を持つリベラリズムの在り方を主張していますし、フランシス・フクヤマもリベラリズムの本来の特徴は、アリストテレスのいう「中庸(golden mean)」を目指すことだと唱えています。最近では、イギリス・リベラリズムの旗手であるエコノミスト誌のコラムニストだったAdrian Woodbridgeは、リベラルの過度な能力主義(meritocracy)を諫めています。こうした、リベラルの側からの主張は、実はデニーン教授のものとそう大きく違っていないようにみえます。そう考えると、デニーン教授の哲学も、一部のリベラリズムと共闘できるということになる。よって、論敵とするリベラリズムも実は多様である、ということになるのではないでしょうか。

以上を踏まえると、御著書との対話を通じて見えてくるのは、実はリベラリズムといわれる思想が持っている強靭性(resilience)や多様性(diversity)です。思想史をみれば、リベラリズムの最大の批判者は、ファシズムやコミュニズム、コミュニタリアニズムとともに、リベラリズム自身でもありました。だからこそ、リベラリズムには多様な潮流が存在してきた、と言い換えてもいいでしょう。

以上、リベラリズムが現在の問題の本当の犯人なのか、そしてそのリベラリズムは一体のものと捉えることができるのか、そしてそのリベラリズムを再建できる鍵は、やはりリベラリズムにあるのではないか、という三点を申し上げて、私からの問題提起とさせて頂きます。

デニーン教授の思想のベースは(このシンポジウムでも多く引用されていたように)トックヴィルにあります。では、トックヴィリアンな政治体制がどのように構築され得るのか、それについてはもうすぐ邦訳が出る『レジーム・チェンジ』に詳しく記載されます。

とても実直で快活な教授から、シンポジウムの後の専門家会議で「とても良いコメントだった」と言われましたが、果たしてデニーン教授の思想がどのように発展していくのか、楽しみです(最新作は『アメリカン・オデッセイ』、こちらの方が読み応えがありそうです)。

私の「戦後史」

 

同志社大学には「歴史美術研究会」(通称「れきび」)、市内の寺社仏閣などでボランティアをしたり、史跡散策をするサークルがあります。

 

このサークルが「戦後80年」の特集文集を出すので、一文を寄稿して欲しいという依頼がありました。最近、これが刷り上がってきたのですが、研究者や政治家(石破茂)に加えて、学生の力作が並んだ論集となりました(入手したい、という方がいればXアカウントの @dssrekibi に連絡してみてください)。

 

 

そのうち、私が寄稿した文章「平和の愛し方」をいかに記します。「戦争」や「戦後」と言えば、1975年生まれの私にとって、祖母の姿と重なるものでした。「おばあちゃん子」だった私にとっての懐かしい思い出です。

 

平和の愛し方、戦争の憎み方

 ヒットした映画『この世界の片隅に』(片淵須直監督、2016年)は、戦争のリアリティをこれまでとは違った形で描いた良作だ。物語は、広島の呉を舞台に、主人公すずの日常生活を中心に、原爆投下を含む、終戦までの道のりを描くものだ。

 秀逸に思えたのは、終盤に終戦を迎えて各宅で料理のための火が炊かれ、街に明かりが灯されるシーンが挿入されていたことだった。日常生活を取り戻すことが平和――今日は昨日の、明日は今日の延長線上にあるということ――の象徴とされているのである。

 そのように感じたのも、私の祖母の経験を常々聴かされたからだ。99歳という長寿を全うした祖母・敏子は、皮肉を言われても気が付かないほどの温厚な性格の持ち主だったが、認知症になるまで(昔はボケる、と表現したものだが)、事あるごとに自身の戦争体験を口にしていた。疎開先の親族の家庭でいじめられたこと、物資提供(「金属回収令」)で婚約指輪まで拠出してしまったこと、戦後になってお手伝いさんがいなくなってしまったこと等々。恨み節では決してなかったが、銃後にあっても、戦争という経験がいかに人に大きな痕跡を残すのかを幼心に感じたものだ。

 『この世界の片隅に』のシーンに言及したのは、そんな祖母の経験と合致するものだったからだ。「戦争が終わってどう思ったの?」と尋ねる私に対して彼女は、戦争が終わって一番ほっとしたのは、灯火管制が解けて、赤痢にかかっていた、後に私の母となる娘の看病がようやくできるようになったことだ、と答えたのだった。終戦の記憶を彩ったのは、いつ死ぬか分からないという恐怖から解放されたり、ましてや玉音放送が流されたりしたことではない。それは、今、目の前にいる家族の面倒を、ようやく心置きなくできる、という生活者の感覚の上に置かれたものであったりするのだ。

 太平洋戦争で兵士として動員されたのは最大で約700万人、つまり残る多くの日本人は日常生活の中で戦争を感じ、体験し、生き抜いたということになる。非日常--戦争――の中でも、あるいはだからこそ、人々は普通に暮らそうとする存在であることは、証言や民俗的資料からも裏付けられることであり、紛争地や難民キャンプで私が目撃してきたこととも符合する。もし、戦後80年に戦争のリアルさを感じられる数少ない方法があるとすれば、そんな人々の日常を自分の日常を重ね合わせることではないか。戦争には悲惨さが付きまとうが、悲惨とは何よりも人から当たり前のものを奪い、無力な存在へと化してしまうことを意味する。

 祖母がなくなり、幾何かの遺産を頂くために戸籍抄本を取り寄せる過程で、発見したことがあった。それは戦争中に彼女は2人の幼子を失くした経験をしていたという事実である。何も隠さず戦争について語っていた敏子だが、最近名前を知った二人の赤子(生き抜いていれば私の叔父母ということになる)を失ったとの経験を私は耳にしたことはなく、だから、どのような経緯でそうなったのか、彼女がその事実をどう受け止めたのかもわからない。終始穏やかで素直な性格の持ち主だった祖母でも、口にすることができなかった、もうひとつの戦争体験だったのだろうか。私は、その時の彼女の感情を想像し、その悔しさに想いを馳せることができるからこそ、戦争を憎むことができるのである。

(了)

 

Minimal phoneは果たしてポスト・ブラックベリーたり得るのか?

キーボード付きの携帯に取りつかれたのはいつ頃からだろうか。

QWERTYではなかったが、それに近い携帯電話を最初に持ったのは2008年ごろ、当時のVodafoneで扱っていたNOKIA 6630からくらいだと思う。この機種は時代的にはなかなか秀逸で、PCのファイルを共有できたり、PDF表示ができたりと、iモードというガラパゴスの国に普遍性をもたらしてくれたと思う。

そう、その時代から私たちが求めていたのは、手の中に納まるパソコンだったのだ。日本でそれが可能にならなかったのは、海外では通信会社ではなくメーカー主導で機種が開発されていたからだ。

 

その路線を歩んだのがブラックベリーで、その後、NTTから販売されたブラックベリーCurve、さらにBoldに乗り換えた。前者は真ん中にトラックボール、後者はトラックパッドがついているという、なかなかの発明品だった。この物理QWERTYキーボードに味をしめて、そのまま国内外でブラックベリーClassic、Priv(スライド式で、前に使っていたSiemens SL10という初のカラー液晶採用モデル以来のなかなか革新的なデザインだったと思う)、さらにPassport、key one、Key 2と、ずっとブラックベリー愛用者だった。もちろん、メイルを打つのに最適なのがブラックベリーだったからだ。ただPassport(これのデザインはMOMA級だと思う)までは独自のOSを使っていたため、Crakberryと呼ばれた裏技でないとアプリを入れられなかった。それがkey oneからはAndroidを導入して、さらに利便性が高まった。これさえあれば、2泊三日程度の出張なら、重いパソコンを持っていく必要すらならなかった。

 

Siemens SL10はこんな携帯だった。CMにはジョン=ポール・ゴルチエを起用。

 

ちなみに、政界きってのブラックベリーユーザーとして知られたのはアメリカのオバマ大統領。従来、アメリカ大統領は機密性の高められたモトローラを使うことになっていたのが、彼は頑なにブラックベリーを手放そうとしなかったため、止むなくブラックベリーに同様のシステムを導入せざるを得なかったという(ブラックベリーはカナダの企業だった)。彼は2009年にノーベル平和賞を受賞したが、それも核廃絶を訴えたプラハ演説によるもので、その時の演説の草稿もブラックベリーで行われたと聴く。

 

ところが、である。

2007年にiPhoneが誕生、それまでの入力方式を塗り替えてしまった。ガラケーであれば数字キー、そうでなければBlackberryQWERTYキーボードだったのが、iPhoneの搭乗でもって文字は画面上で打って下さいね、というのがスタンダードになってしまったのだ。そして打ちにくいから、これとともにスタンプというものが誕生することになる。これに抗して、iPhone4に合体させるキーボード(やはりスライド式だった)を使っていたものの、横置きで重すぎるため、さっさと諦めてしまった。

いずれにせよ、打ちにくい、電池の持ちも悪いという基準を作ってしまったのはiPhoneなのだ。こうしてブラックベリーは企業として窮地に陥っていく。その顛末は映画が描く通りだ。

 

 

その点、最高頂はブラックベリーのKey 2だった。画面はやや小ぶりなものの、持ったバランスもよく、キーのタッチ感もよく、カメラもまあまあの解像度だった。製造中止で手に入らないので、中古を2つくらい乗り換えてきたが、ある真夏の日、うんともすんとも言わなくなり、自力でバッテリーを交換したところ、発火してしまって、それ以来はGoogle Pixelという、平凡な選択となってしまった。

ただやはり画面上で小さなアルファベットを打つのは苦行でしかない。フリック入力ができればよいのだが、メイルの半分くらいが欧文だと、これに慣れるのも面倒で、結局QWERTY入力で苦労することになる。あまりにもストレスなので、Uniheartzという Titian社の物理キーボードを備えたモデルを購入したものの、キーボードそのもの自体は日本語入力に対応していなかったり、キーボードの配置が変だったり、あまりにもバランスが悪かったりして、やっぱりブラックベリーに郷愁を持つ身としては、愛着がわかなった。

 

そこに昨年やってきたのが、アメリカのベンチャー企業がローンチしたMinimal Phoneという代物。スマホ依存を減らすためにE-Inkを使っているのが特徴だが(要はすべてが白黒の世界ということ)、一目でこのキーボードはいけるかもと感じ、クラウドファンディングに早速にビッドしてみた。

半年近く待ってようやく届けられた本体。小ぶりながらもキーボードのクリック感もよく(スペースキーを除く)、やはり物理キーボード自体は日本語入力に非対応なるものの、仮想キーボードと併用すれば何とか我慢できるレベル。少なくとも打刻感だけをとればポスト・ブラックベリーには十分かもしれない。しかしなるべくスマホいじらせないというコンセプトのため、E-Inkでの動きは遅く、白黒の写真もSNSガラケー以下の質なので、2台持ちにはなりそうだ。

 

おそらくキーボードを打って文字を入力していく、という方法自体があと数年で時代遅れになるだろう。代わりになるのは音声入力だったり、ジェスチャーだったり、AI予測だったりするかもしれない。でも、手書きが典型だが、物理的な距離や反応があることで、人は思考から身体の動き、身体の動きから文字の認識、そして文字の認識から意味の解釈という、いわば一連の「思考の流れ」を経験することができる。仮想キーボードの打ちにくい、物理キーボードの打ちやすいという次元を超えて、おそらくいまだに脳がブラックベリーを追い求めているのはそんな所に理由がありそうだ。

メルカリでKey 2がまだ5万円程度で売られているのは、そんな本能を持つ人が少なからずいるからだろう。ポチってしまおうかな?

高坂正堯先生の想い出。

最近、高坂正堯の『歴史としての20世紀』を読んだ。1990年にあった講演録を文字越ししたものなので、とても読みやすく、20世紀がどのような時代だったのか、臨場感に溢れた内容で、面白く、手軽に読める内容になっている。

奥付をみたら1996年逝去と書いてあった。それで改めて思い出したのが、高坂先生との想い出である。

大学生時代、慶応義塾大学法学部で「国際政経研究会」というサークルに所属していた。このサークルは今でもあって、精力的に活動している。ただ、その活動内容というのは皆で論文を書くというのが主軸で、そこからわかるように、いわゆる慶応っぽいサークルではなく、地味で(おそらく)暗い内容だった。そんな活動だからか、実はこの研究会からは名だたる学者が排出され、「君も国際政経だったのか!」ということがよくある。僕が「学界の松下政経塾」と呼ぶ所以である。

さて、95年から96年のことだったか、慶応の学園祭である「三田祭」でサークルとして何か企画するか、ということになった。僕が何の深い考えもなく、当時テレビでも有名だった高坂正堯の講演会を催してみてはどうか、という提案をしたら、皆が賛同してくれたので、先生との連絡役を仰せつかることになった。まずは依頼の手紙を大学充てに出し(当時はまだメールはそこまで普及してなかった)、快諾する旨の返事を自宅に直にお電話を頂いたような記憶がある。そこで、講演会の日にちの日時をお伝えした。

偉い先生(どこまで偉いかもよく分かってなかったかもしれないが)がやって来る、ここは大きな立て看板を作ろう、お花でも用意しておこう、そうだ色紙にもサインしてもらおう、などと仲間で相談して抜かりなく準備しておいた。なにせ世間では有名な先生だ、何かあったら大変だと、警備員のアルバイトをしていたサークル仲間に制服を着せて巡回させる手筈まで整えたのである。

しかしそこはまだ世間知らずの大学生。三田祭当日、サークルの部屋で待機していると門番の方から「いま、高坂さんという京都大学の人が来ているんですけど」と電話がかかってきた。そう、駅か少なくとも正門までお迎えに行くという発想もなかったのである。慌てて駆けつけると、そこには素敵なダレスバックを携えた先生がニコニコと立っておられた。講演会までの時間、控室にご案内することになったが、これは事前に申し込んでおかない仕組みになっていて、部屋に鍵がかかっていてドアも開かない。そこで講演会の大きな講義室に直接ご案内することになった。

幸いなことにほぼ満員御礼の状態。贅に入って、ほぼ内容は覚えていないのだが、こともあろうか、真下でロックコンサートが始まり、教室の後ろではほとんど聞こえないという破目になった。すかさず先生は一言、「いいんです、民主主義には多少の騒音があった方がいいんですよ」と。なんて立派な先生なんだろう、とこの時、おそらく初めて高坂先生の凄さを知ったように思う。簡単に言うと、偉い人は偉ぶらないからこそ、偉いのだ。

何とか無事に講演が終わり、京都にお戻りになるという先生を今度は抜かりなくJRの田町駅までお送りした。もちろん、講演料なんてものは用意しておらず、代わりにとても大きな花束をお渡しした。「妻が喜ぶと思います」と仰ったように記憶している。ダレスバックを左手に持ち替え、花束を右手に抱えた先生は山手線の座席にお座りになったが、あまりにも大きな花束で顔が見えないほど。それをみていた通行人が「あれ、有名な先生じゃない?」と囁いていて、誇らしさと恥ずかしさが混じった感情を経験したのも初めてのことだったではないだろうか。

乗車間際に混雑するホームで色紙にもサイン頂くという非礼も働いた。「問い続けること」と書かれたその色紙は大事に今でも研究室に飾ってあるが、眺める度にその大切さを知ると同時に、青年時代の恥ずかしさの感情、そして高坂先生の高潔なお人柄を思い出す(なので色紙はそのうち国際政経研究会にこの恥ずかしい想い出とともに寄贈しようと思う)。少なくとも、僕が似たような非礼を働かされても(そうそうあることではないけれども)、ちっとも怒る気が起こらないのは高坂先生の偉大さによる所が大きい。

そうか、先生にそんな無礼を働いたのは、お亡くなりになる直前のことだったのか、とさらに恥ずかしい想いをした、という次第。先生の著作に久しぶりに触れ、このような形ではあれ、今更ながらお詫びしておきたい。

 

札幌「シアター・キノ」で『復讐者たち』(7月31日公開)の解説トークを行いました。

市民が支え来年30周年を迎える札幌「シアター・キノ」。単館系・インディペンデント系を含め、良質な作品を札幌市民に届けています。

これまで何回かアフタートーク(最初は2006年だった記憶も)を依頼されてきましたが、今回『復讐者たち』(原題"Plan A"ドロン・パズ&ヨアヴ・パズ監督)の解説トークを頼まれたので、以下にその内容を記します(やや批判的なことも言っています)。

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100分ちょっとの映画ですが、古典的な二重スパイ的なプロットを活用しながら、最後まで展開を読まさせない、とても濃厚で展開の早い作品だったと思います。

さて、余り映画の余韻を邪魔してもいけないので短く、ヨーロッパ政治の研究者として、この映画の背景や意味する所を簡単に、3つほど説明できればと思います。支配人の中島洋さんからは20分は喋ろ、と言われてるのですが、それよりは少し短めにしたいと思います。

実はストーリー以上に、この映画は色々な面からみて興味深い作品だと思います。

映画は戦後直後(ロッセリーニ風にいえば「ドイツ零年」)の、ドイツ人への復讐を計画していたことを描いています。強制収容所を中心に――私もアウシュビッツオシフィエンチム)に行ったことがありますが――、600万以上ものユダヤ人が殺されたことはよく知られていますが、ユダヤ人が、この時代に主体的にそういうことを企てていたということはそれほど知られている事実ではありません。水道管に毒を流してドイツ人を殺すという計画があったことは史実で、この映画では描かれていませんが、やはりナカムのメンバーたちが、ドイツ兵の収容所のパンに毒を仕込んで2000人ほどがヒ素中毒にかかったということも記録されてます(実際の死者数は記録なし)。戦後の混乱の中で、ユダヤ人がドイツ人に復讐するという光景は珍しくありませんでした。

キース・ロウ『蛮行のヨーロッパ』という、この時代のヨーロッパを記録した本から、ドイツ人に復讐したユダヤ人の証言を引用します。

「私たち皆が参加した。甘美だったよ。唯一私が残念に思うのは、もっとやらなかったということだけだ。何だってやった。奴らを列車から振り落とした(略)私は楽しんだよ。当時、私たちのうちの誰であれ、味わうことのできた満足は他になかったんだ」(157頁)

映画でも主人公が「復讐をしたい、その資格があるはずだ」という場面が出てきますが、復讐したいというのが、一般的な感情だったことがわかります。

ただ、映画は、これまで単に一方的な被害者として描かれていたユダヤ人たちが、実際には加害者でもあった、ということを言っているわけではもちろんありません。色々と仲間内で行き違いはありながら、最終的にはドイツ人を、筆舌に尽くしがたい苦渋を味わったユダヤ人の側が赦す、という、戦争で生き残ったユダヤ人の道徳的優越性を描くものでもあるわけです。

子どもを殺されたら、あなたはどうしますか、という問いが最初と最後に出てきますね。「復讐」なのか「赦す」べきなのか、もちろん赦すべきだ、というメッセージが押し出されてます。以前、パリのテロで家族を殺された父親が、テロリストに「憎しみという贈り物を君たちにはあげない」という文章を発表して大きな反響を呼びましたが、この映画が発する倫理的なメッセージも同じでしょう。

ただ、これは高度に政治的な映画だということでもあります。戦後、少なくとも西ドイツは、法的にはともかく、道徳的にはホロコースト(ショア)が徹底的な歴史的反省の対象になったのは事実です。ナチ時代の反省こそが戦後ドイツの歴史を作ってきたといっていいくらいです。ドイツに行くとわかりますが、そこらかしこに反省と追悼のモニュメントで溢れています。

ただ、問題はそうすると、ユダヤ人は一方的な被害者として捉えられることになるわけです。法学に修復的司法論という分野がありますが、そこでは加害者と被害者が固定化されてしまうと、むしろ加害者だけが反省するという特権的な地位を得てしまうので、一方的な関係はよくない、という議論があります。反省するかしないか、赦してください、というかいわないか、というのはかつて自分に被害を与えた側の一存にかかっているからですね。それがない限り被害者は、救われないという意味で、加害者の方が相手に優位にい続けてしまうという皮肉です。あれですね、「ねえ、あなたあやまってよ」という奴ですが、あやまるかどうかは相手次第なので、余計腹が立つというのは、普段の日常生活でもある場面ではないでしょうか。

だから、ナチを描く映画では常に受動的な被害者として描かれてきたユダヤ人に焦点を当てた上で、復讐をすることはできたのだけれども、自分たちはそれを選択しないで相手を赦すという主体的な選択をしたんだ、ということを描くことで、被害者としてのユダヤ民族の尊厳を回復するという癒しの話でもあるんです。それがひとつです。

二つ目は、歴史をどう記憶するかという問題からの視点です。

実は、ショアについての記憶が世界で共有されるようになったのは、比較的最近のこと、1990年代初めくらいからのことです。その背景には、冷戦の終結があります。ここから、それまでは東西陣営のイデオロギー闘争で覆いつくされていた歴史の記憶が一気に噴出することになります。例えば、旧共産圏のポーランドでは、冷戦時代の西ドイツに対しての公式的記憶はファシズムと資本主義の権化として捉えていました。さらにアウシュヴィッツは、ユダヤ人を虐殺した場所ではなく、ポーランド人が殺された場所として追悼されてきました。ところが、冷戦が終わると、今度は冷戦中のソ連の行為が新たな記憶として浮上してきます。その代表的な歴史の記憶が「カティンの森」事件ですね。戦中にソ連兵がポーランド軍人2万人を虐殺したという歴史です。これはポーランド人のアンジェイ・ワイだという監督が映画化もしていますが、冷戦中はナチスの仕業とされていたのが、その後ロシアの情報公開で、実際にはソ連がやったことということが明るみになって、歴史問題になっていきました。こうした例は事欠きません。トルコのアルメニア人虐殺であるとか、スペインのフランコ体制の時の迫害であるとか、パンドラの箱を開けたかのように、世界各地で歴史認識論争が噴出します。日本も、中国や韓国との関係において、同じことを経験しています。

そうした中で、政治的にこうした歴史を利用しようという動きも出てきます。中国は南京大虐殺を記念する日を2014年に制定しましたし、ロシアではナチズムとソ連時代を同一視することを最近、法律で禁止しました。領土の変更があった東アジアと東ヨーロッパに集中していますが、こうした歴史認識論争は現実の国際政治を動かすようになって、記憶の「安全保障化」などということも言われたりするようになりました。つまり国際政治そのものが歴史的な記憶から動くようになっているのが、今の時代です。

実はこうした歴史認識に、映画も一躍かっていて、黒人奴隷を描いたスピルバーグの『アミスタッド』とか、フランスのインドシナ支配を描いた『インドシナ』といったその国の負の歴史を描く作品が90年代から2000年代にかけて多く公開されています。そうした観点から、今日の映画をちょっと批判的にもみておきたいと思います。

つまり、この映画は観ようよっては、イスラエル建国の歴史を正当化するものでもあるんですね。パレスチナの地に祖国を建国するために、むしろ我々はドイツを許さなければならない、というメッセージも何度か出てきます。

ただ、そういう風にイスラエル建国を正当化するということは、今のパレスチナの問題を相対化するということにもなります。監督はイスラエル人ですし、制作にもイスラエルのお金も入っています。一応、ドイツとの合作ということになっていますが、ドイツがメインだったら、ドイツ語の脚本になっていたはずです。敢えて英語の台詞にしたのは、世界に向けて何かと評判が悪くなってしまったイスラエルの正当性をアピールしたいという思惑がないとはいえないと思います。それは、映画を通じた歴史認識論争にイスラエルも参戦してきた、ということにもなります。

最後に、こういう風に純粋に映画を楽しめない時代に、どういう風に歴史とつきあっていったらいいか、ということをお話してお仕舞いにしたいと思います。 

ポール・リクールという、有名なフランスの哲学者がいます。今のフランスのマクロン大統領が学生時代に助手をやっていたことでも知られている人ですが、彼の書いた『記憶・歴史・忘却』という長い本があります。これは、記憶と歴史がどのように議論されてきたのかということについての決定版みたいな本なのですが、彼は人々が和解するためには、最終的に歴史を忘れないといけない、ということをいいます。歴史を忘れてはいけない、と普段習っている私たちからすると意外に聞こえるかもしれませんが、リクールは、むしろ主体的に忘れたふりをしろ、と呼び掛けるんですね。引用すると、「気遣う記憶力の地平にある気遣わない記憶力、それは忘れやすい記憶力、そして忘れられない記憶力に共通の魂である」と書いています。簡単にいうと、互いに傷つけあう歴史は、歴史に値しない、といっているわけです。

歴史は何のためにあるのか、それは自分たちの傷をなめたり、加害者を糾弾したり、ずっと被害意識を引きずるためにあるんじゃない、というのがリクールの主張です。そして、歴史や記憶は他人とよりよい未来を作るために用いられるべきだ、といいます。だから、歴史を振り返る作品を見る時、それは果たして、未来の人類の共生のために、どのようなメッセージを打ち出しているものなのか、ということを基準のひとつにしてみるのがいいんじゃないかな、と私は思っています。

ご清聴ありがとうございました。