昔の「リュマニテ」、今の「リュマニテ」。

2005‐2006年はフランス共産党の史料公開が大きく前進した年だった。
共産党系労組であるCGT(仏総同盟)も、歩調を合わせるかのように、史料整理に着手し、その目録(Inventaire)を作成している。これでフランス共産党の本格的な歴史研究が可能になるかのように思われた。

フランスの場合、歴史研究者と張り合うのがジャーナリストである。史料を漁っていて「敵情視察」として世間話をしていると、実はジャーナリストだった、というのはよくある話である(漂わしているオーラも若干違ったりする)。

史料公開の進展を使って、あっという間に書かれたのが、2人のジャーナリストによる「1940年6月:秘密の交渉(Juin 40,la négociation secrète)」(Les éditions de l'Atelier)である。この本は、39年に機関紙リュマニテ発行が禁止され、さらに解党にまで追い込まれたフランス共産党がなぜ翌年になってすぐに再発行が許されたのか、ということを史料に基づいて明らかにしている。これによると、党書記長であるトレーズとその後任であるデュクロがモスクワとの協議の上、ナチスドイツ外相リッテントロップの側近であるオットー・アベーツ(仏大使)と取引きをして、リュマニテ再発行を実現させたという。従来、共産党はこうした結びつきは一部の者による「逸脱」に過ぎないと反論してきたわけだが、今回は執行部周辺の明確な関与とされる史料に基づいて記述されているだけに大きな反響を呼んでいる。しかも、労働者に抵抗を呼びかけた「7月10日の呼びかけ」は50年に「偽造」されたものであるとまで暴露されてしまった。

 1997年に出版されて。やはり大きな反響を呼んだ「共産主義黒書(Le livre noir du communisme)」を思い起こす。「7500人が銃殺された党」。組織として唯一ナチス占領とヴィシー政府に抵抗したというのが戦後最大野党だった共産党の最大のプライドであり、知識人の拠り所でもあったから、この主張に多少の真実があるとすれば、大きな知的事件である。西欧マルクス主義をリードしてきたN・プーランツァスやP・ニザン、アルチュセールといった知識人の存立基盤を問うことにもつながる。

当のリュマニテは、12月12日付けで同書を「一過的な悲劇的なエピソード」を明らかにしたものとの書評を掲載し、すぐ横にはP・モーリー著「1940-45年のフランス共産党レジスタンス」への好意的な書評を載せた。

「神話」は史料に基づいて暴かれる。第四共和制下では、とりわけ右派ゴーリストから共産党とモスクワの結びつきからレジスタンスとしての党のイメージに対する攻撃が激しかった。もちろん、「モスクワの端女」としてのフランス共産党の立場は長いこと知られているから、80年代以降共産党の凋落が決定的となり、冷戦がすでに終わった今ではこうした事実自体はさもありなん、これ以上ダメージが広がることはないだろう。このことは、フランス共産党が「存在の耐えられない軽さ」にまでなってしまっていることの証だと思うと、少し寂しい感じがする。