写真家サルガドの旅道。
いよいよこの8月に映画『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』が封切になります。
この映画は、かねてからのファンであった写真家サルガドと『パリ、テキサス』(1984年)から数えて、沢山の作品で魅了されてきたヴィム・ヴェンダースのコラボという意味で私にとって願ってもない映画となりました。
それ以上に、縁あって、この映画の字幕を監修するという栄誉に恵まれ、神々の競演を少しでもお手伝いできたことを心から嬉しく思っています。ちなみに映画は、フランス語に英語にポルトガル語にと混ざっていて、翻訳者としてはかなり大変だったのではないかと思います(私自身は他人の訳にケチをつけるだけの役回りです)。
内容は、サルガドの作品と半生を軸に、彼自身や家族の証言をつづっていくという地味な作品に仕上がっていますが、サルガドの朴訥で訛りの強い語りもあって、観ていて自然に引きこまれていく魅力があります。今年のアカデミー賞のドキュメンタリー部門でノミネートされてもいます。
サルガドについては改めて説明するまでもないかもしれませんが、1990年代の初めに、確か渋谷のBunkamuraミュージアムでの展示を見に行って以来、最も好きな写真家の1人となりました。2000年代に入ってからですが、彼が来日した時の個展にも足を運んでサインしてもらった写真集は家宝です。
サルガドの写真の魅力はどこにあるのか。一言でいえば「人間の尊厳の活写」にあるのだと個人的には思っています。
私が彼の作品集で最も好きなのは、出世作の「労働者たちーー工業時代の考古学」です。この作品群には、南米や東南アジアの、鉱山や解体所で文字通り額に汗をして働く人々が数たくさん納められていますが、1人1人が本当に姿美しく、写っています。それは決して、労働を通じた人間の輝きなんて陳腐なものではなくて、過酷な環境や労働条件の中でこそ人間性が問われ、そうした局面に置かれた人々は嫌がおうなく、むしろ人間性を背負って生きることになるーーそんな姿をサルガドの写真は映し出しているようにみえてなりません。
Workers: An Archaeology of the Industrial Age
- 作者: Sebastiao Salgado,Eric Nepomuceno,Lelia Wanick Salgado,Philadelphia Museum of Art
- 出版社/メーカー: Aperture
- 発売日: 1996/11/01
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サルガドの余りにも美しすぎる写真の構図が、その視線をさらに引き立てます。彼を世界的に有名にした写真集「サヘル」は、移動を強いられる難民・避難民を主人公にしています。中に、森の木漏れ陽の中で休息をとる彼らを捉えた一枚がありますが、まるで聖書に出てくるワンシーンかのように息を呑むほど美しい陰影と構図です。そこには安易で一方的な同情や人道主義をはねのけるような逞しさが被写体に宿っています。もちろん、こうした写真は悲惨な状況で撮られたもので、サルガド自身も映画の中で、これを撮影するためにした経験ゆえに、もう世界を旅するような写真を撮ることは止めた、と証言しています。
想像を絶する悲惨な状況をいかに美しく切り取ってみせるか。環境に置かれた人間の美しさは、こういう所から出てきているようにも思いますし、ドキュメントと作品を望みうる極限で合致させているのがサルガドの作品の魅力だと改めて思います。
Sahel: The End of the Road (Series in Contemporary Photography, 3)
- 作者: Sebastiao Salgado,Orville Schell,Eduardo Galeano,Lelia Wanick Salgado,Fred Ritchin
- 出版社/メーカー: University of California Press
- 発売日: 2004/10
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もともと彼は農業経済のエコノミストでもありました。映画の原題は「地球の塩=Salt of the Earth」ですが、これは人間のことを指しています。塩は大地から生まれ、害にもなれば、助けにもなる。そしてまた大地に帰っていくーーサルガドは母国ブラジルの出身の地で、現在、植林事業・環境保全のための財団を立ち上げて活動していることも映画では紹介されます。これが最新のアルバム『ジェネシス』にもつながっています。
Sebastiao Salgado. Genesis: Trade Edition
- 作者: Lélia Wanick Salgado,Sebasti o Salgado
- 出版社/メーカー: Taschen Deutschland Gmbh+
- 発売日: 2013/04/20
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サルガドが設立した財団「Instituto Terra」
:: INSTITUTO TERRA - WELCOME - Official Website ::
彼の最初の作品は、南米大陸の旅から始まりました(『もうひとつのアメリカ』1986年)。
- 作者: Claude Nori,Gonzalo Torrente Ballester,Alan Riding,Sebasti o Salgado
- 出版社/メーカー: Aperture
- 発売日: 2015/05/26
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南米から彼の旅は始まり、ぐるっと世界中をまわって、また再び南米の地に戻ってきたというわけです。もう彼は世界の悲惨な人々を撮ることはないでしょう。なぜ人間から始まった彼の旅が、大地へと帰結することになったのか。ロードムービーこそを得意としてきたヴェンダースがサルガドの旅道を辿っていった理由も、映画を観れば納得できるのではないかと思います。
是非劇場に足を運んでみてください。
大学での政治の「教育」を考える。
先のBlogosのエントリに日比嘉高「「自民党サークル」はありなのか――18歳選挙権と大学の中の政治」がありました。
ここで日比氏は、一般論として大学生が政治に関心を持つことは良いことだとしつつも、「政治団体が直接的に大学のキャンパス内の政治活動に関わってくるような事態については、私は大きなためらいと不安を感じる」として、その理由として、まだ大学生に政治的な免疫がなく、その結果として「学内で政治活動が高まったときに、何が起こったかもまた知っている」と、過去の学園紛争のことをあげています。
大学教員として、大学生を心配する気持ちは非常によくわかります。それでも、このエントリには少なからず違和感を持ちました。
まず、議論の整理が必要です。
日比氏は、「自民党のサークル」であることに警戒を抱いているようですが、しかし学園紛争時代の学生運動は、むしろ反体制的な政治組織がほとんどでした。与党組織が大学生を組織しようとした場合、どちらかといえば、大学生を時の政府の政策の理解を求め、そのリレー役を期待するでしょうから、それゆえ示唆されているような暴力志向にはなりずらい筈です。
また、政党のサークルが18歳選挙権を機に突如として誕生するかのような指摘がありますが、それも事実に反します。私が大学生の頃から、自民党系、共産党系、公明党系などの政治サークルは現に存在していましたし、今でも存在します。むしろ、こうした青少年を対象とした下位組織をきちんと持っていることこそが、政党政治においてヘゲモニーを握るために非常に重要だということがわかっているからこそ、自民党という政党の相対的な足腰の強さがあるのだと思います。
政党だけでなく、ありとあらゆる結社や団体が大学での組織を作っているアメリカやヨーロッパを知っていると、なぜ特段政党のサークルを危険視するのか、理解しかねる部分があります。もし与党のサークルだから危ないというのであれば、それは自由な政治活動を排除することになり、本来であれば、どの政党であろうが、自由に大学の支部を作るのが健全なことだと考えます。
次の点として、このエントリで思い出したのは、Blogosでの別のエントリでした。
ここで紹介されている文部省(当時)の通達は、高校での「政治的教養」の大切さを説きながらも、過度の政治的活動は好ましくなく、一定度の常識的な政治活動をするよう行うべし、というのが主旨になっています。全く方向は異なっているようではいても、「限られた範囲で良心的な政治活動なら認めるが、そうでないものは認めがたい」という、都合の良い政治活動観が優先している感じがあることは否めません。
ひとつエピソードを紹介します。
以前、大学での学生委員というのをやっていましたが、その際に大学内のパソコンでのファイル交換ソフトの使用が委員会で問題視されました。大学のパソコンで著作権に違反するようなダウンロードがあったと、著作権協会からの指摘があった、というのが事務方の説明でした。その結果、学生委員会は、事務方の提案に沿って、大学内のパソコンで交換ソフトを利用することを禁止することを決定しました。
私はこれに反対をしました。なぜなら、問題はファイル交換ソフトがインストールされて、それを利用することではなくて、違法な形でファイル交換をすることだからであり、それは人を殺す可能性があるから自動車の免許を与えないという論理のようなもので、本来の教育とはいかにファイル交換ソフトを適切に使いこなすかを教えることだからです。交換ソフトがどのようなメカニズムやマーケットのもとで動いているのかを知らないままに社会人を送り出すのでは、大学として全くの責任放棄であるとすらいえるのではないかーーそんな意見でしたが、もちろん、この種の委員会では予めの方針通りに事が運ぶのがおおよそなので、私の意見は聞き入れてもらえませんでした。
話を戻すと、先のエントリは、この大学の事務方の懸念と似ているのではないでしょうか。危ないからそこには触れさせないーーそうではなく、本来の政治教育とは、いかに政治が危ないものでありつつも、しかし私達の社会を創り上げ、運営するためには不可欠なものであるかを教えることにあるはずです。
政治にどっぷりつかりすぎるのもよくなければ、それに無関心であることもいけない。もし主権者としての教育をいうのであれば、必要なことは、それとの距離を主体的に決めれるような政治的な思考であるーーそれこそが、多くの政治学者が教えるところです。
シティズンシップ教育論: 政治哲学と市民 (サピエンティア)
- 作者: バーナードクリック,関口正司,大河原伸夫,岡崎晴輝,施光恒,竹島博之,大賀哲
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
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日比氏は言います。
「新入生の不安定さにつけ込み、政治的な信条を植え付け(「オルグ」し)、利益誘導し、生活を巻き込み、そして卒業後の進路や思想までもコントロールしようという試みに見えてしまうのだ。「党員」にするとは、そういうことだ。」
しかし、政治学者としていえば、こうした行為はまさに政治に欠かすことのできないひとつの性質です。例えば、新入生が議員インターンシップをやるようなことも含めて、それは唾棄すべきことではないでしょう。
少なくとも、政治的主体とのインタラクションがなければ、その主権者はどのような信条を持つべきか、どのように自分の利益を定義し、どんな思想を持ち、その思想を広めるためにどのような組織と付き合うのかを決めることはできないでしょう。無から政治は生まれません。もっといえば、比較した場合、日本の主権者は政党や政治組織との関係性が薄いゆえに、政治不信が高い度合いに留まっているといえます。
大学生は政治とは無関係でいられるかもしれません。しかし、政治は18歳だろうがそうでなかろうが、大学生だからといって放っておきません。240万人の新たなマーケットが誕生するからです。そうであれば、まずは政治を端から忌避しないこと。意は尽くせませんが、それが18歳で主権者になるということの意味、大学ができる主権者教育のひとつなのだろうと思います。
「内山秀夫遺稿集刊行委員会」御中
謹啓
惜春のみぎり、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
この度は編『内山秀夫 いのちの民主主義を求めて』(影書房)を御恵投いただきましたこと、厚く御礼申し上げます。
刊行に当たっては、これまで何度か電子メールでやりとりをさせて頂いておりましたが、遺稿集作成の期間にちょうど在外研究中で身動きがとれなかったこともあり、何のお役にも立てなかったことを、まずは深くお詫び申し上げます。
それ以上に私が内山先生と知り合いになったのは、それほど長い期間ではなく、初めてお目にかかったのが1994年頃のこと、慶応法学部をすでに退職される間近のことだったと記憶しています。その後、新潟国際情報大学の学長になられた時に市内のご自宅に仲間の何人かとお邪魔させていただいたことがあり、その他にはやはり大多数で1、2回酒席(川原彰先生を介してだったか)をともにさせていただいた位の経験しかありませんでした。その程度の人間が内山先生の遺稿集作成に携わるのも恐れ多いという考えもありました。
ただ、それでも先生は当時の私にとっても人としての強烈な印象を残しました。その印象は、こうして先生の書かれた膨大な文章を拾い読みしても変わりません。ご自宅のトイレに太平洋戦争のフィクションものが詰まれていたり、キッチンから山のように缶ビールを出してきたり、誤訳の指摘にも丁寧に応じてくれたり、とエピソードは色々ですが、優しさの中の厳しさ、柔らかさの中の鋭さ、頑固さの中の柔軟さ、厳密さの中の曖昧さ、絶望の中の楽観さなどが、文章からも感じ取ることができ、それはそのまま私が感じた先生のお人柄と直結しています。
これまでも折に触れて内山先生の書かれたものを拝読する機会はありましが、こうしてまとまった形で読めることは大変に有難く、そのような労をとられた長谷川様とお仲間の皆様に感謝せざるを得ません。研究者だけでなく、弟子というよりもゼミ出身者がまとめられたというのも、内山先生の何よりの遺産かもしれません。
私も政治学者の端くれとして日々悩んでいますが、その中で自然と、物事や状況と馴れ合って、思考をとめてしまっている瞬間があります。内山先生はおそらくそのような馴れ合いを許されない経験を生きておられたのだと察しますが、そうした意味で、政治学者として今のタイミングで先生のものを再読して、改めて、この学問が目指すべきところのもの、大事にすべきもののところを諭してもらったように(あるいはそれを考えるべきと誘ってもらったように)感じました。そうした意味でも御礼を申し上げたく、一筆させて頂きました。
全てを意に尽くすことできませんが、略儀ながら書中にて御礼申し上げます。末筆ながら、寒暖激しい折、どうぞご自愛を下さいますようお祈り申し上げます。
謹白
(以上は、本をお送りいただいた内山先生のお弟子さんのお一人にしたためたお礼状の写しです。 内山先生の文章をめくっていくと、「人間」という言葉に何度も出会います。人間を信じ、人間に傷つき、それでもなお人間をあきらめないというのが、内山政治学の根本なのではないかと、改めて感じます)
「吉田徹のフライデー・スピーカーズ」三角山放送局(5月29日)でした選曲。
「こんにちわ、吉田徹のフライデー・スピーカーズです」というのも、5月で二回目になりました。まだ慣れません、誰にも向かって喋らないという、このラジオというコミュニケーション。
ラジオといえば、やはりルーズヴェルトの「炉辺談話」なんかが思い出されます。最近読んだ本で知ったのですが、ラジオ放送に際して彼は入念に何度もリハーサルをして、最もポピュラーな英単語1000語しか使わず、話したそうです。中々そういう風にはいきません。
そんなエピソードも盛り込まれているこの本、シヴェルブシュの本に漏れず、余りにも面白いので、近々書評をする予定です。
さて、今回のフライデー・スピーカーズは、5月7日に投開票があったイギリスの総選挙の総括と今後、ブックレビューのコーナーでは岩本裕『世論調査とは何だろうか』(岩波新書)を取り上げました。
イギリス総選挙のポイントは、
-ほとんどの予想を裏切ってハングパーラメントとはならなかった。
-そうした意味で二大政党制が復調したかのようにもみえるが、労働党の金城湯池だったスコットランドのほとんどの議席をSNP(スコットランド国民党)が奪ったこともあり、質的にはやはり二大政党制は瓦解過程にある。
-主要政党の党首のほとんどが40代、半分は女性、立候補者もジェンダーでみれば4分の1が女性といったこともあり、これからますます多様なダイナミズムが生まれるはず。
-スコットランドの英国からのエグジット(圧力)、英国のEUからのエグジット(圧力、この入れ子構造的なダブル・エグジットに注目すべし。
という風に解説をしました。
とはいえ、何と言っても今回の総選挙の敗北者は、どこもハング・パーラメントを予測した世論調査でした。
ということで、ブックレビューのコーナーではずばり『世論調査とは何だろうか』という新刊を取り上げて、紹介しました。
著者の岩本さんは、長年NHKの記者と解説者を務め、今はNHK放送文化研究所で実際に世論調査に携わっている方で、非常に平易な形で、素朴な疑問点にも丁寧に解説を施しています。ブータンの幸福度調査には大きなトリックがあり、その結果、同国は世界で一番幸せな国として有名になった、といった小ネタもあります。
http://www.sankakuyama.co.jp/podcasting/endo.html
ちなみに、流した曲はもちろん、著作権の問題でポッドキャストでは聴けません。前回もそうでしたが、番組で取り上げるテーマと関連した曲を毎回選んでいます。今回は以下のラインナップでした。
1.Elvis Costello - Shipbuilding Elvis Costello - Shipbuilding - YouTube
日本ではロマンチックな曲を歌うことで知られるコステロですが、この曲はサッチャー政権時代のフォークランド紛争を題材にしたもの。戦争のための造船で潤う父親の息子が出兵している、というストーリーです。戦争の矛盾を痛ましく歌っています。
2.Genesis - Land Of Confusion Genesis - Land Of Confusion [Official Music Video] - YouTube
86年発表のヒット作です。イギリスの人形風刺劇Spitting ImageをPVで使ったことで有名です。サッチャーやレーガン、カダフィ大佐なんかが出てきます。
3. Annie Lennox - Walking on Broken Glass Annie Lennox - Walking on Broken Glass - YouTube
これは政治色はありません。単にアニー・レノックスがスコットランド出身で、熱心な慈善活動家でもあるという流れです。
4.Chumbawamba - Tony Blair Tony Blair- Chumbawamba Ltd Edition single (with lyrics) - YouTube
「Tubthumping」で一躍有名になったChumbawambaですが、筋金入りのサッチャー嫌いでも有名でした。この曲は、97年に政権交代を果たしたブレア首相を「お前の約束したことは全部ウソだったじゃないか」と首相を「嘘つき」と張り倒しています。
5.Boy George - The Crying Game BOY GEORGE The Crying Game - YouTube
これも特段メッセージ性のある曲ではありませんが、ニール・ジョーダンのIRA紛争を描いた同タイトルの感動的な映画にちなんで。この曲はリメイクなのですね。
6.Billie Holiday - Strange Fruit Billie Holiday - Strange Fruit - YouTube
1937年の曲。「Strange Fruit=奇妙な果実」とは、当時のアメリカ南部で横行した黒人のリンチで、死体を木にぶら下げていたことを表現しています。『世論調査とは何だろうか』の中で、1936年の大統領選の際にフランクリン・ルーズヴェルトの勝利を見事的中させた米ギャラップ社の話が紹介されていたので。
7.Bob Dylan - Blowin in The Wind Blowin in The Wind - Bob Dylan - YouTube
60年代のアメリカの公民権運動での代表的なプロテスト・ソングです。「友よ、答えは風の中に舞っている」とさわやかな答えに対する問いは「どれ位の死者が出れば、余りにも多くの死者だと彼はわかるのだろう?」だったりします。。世界広しとはいえども、兵士だから死ぬかもしれないのは当たり前、といえる国の指導者はそう多くいない筈です。
ちなみに、『世論調査とは何だろうか』では、近年、ネット調査を取りいれた調査会社のユーガブ(YouGov)に注目して論じています。この会社はもともと、労働党の広報戦略を担っていた人物を含め、保守党の政治家なども参加して立ち上げた若い会社ですが、瞬く間に、世界的な知名度を確立しました。日本でも自民党がITの広報戦略に重点を置いたり、逮捕された川口浩氏も政治家だった経歴を活かしたことなどもありますが、やはりそこに至るほどの「成熟度」はないようです。
それでも、ユーガブも今回の総選挙はハングパーラメントになる、と予想していました。現在、イギリスでは世論調査会社で作る「英世論調査協議会(British Polling Council)」が専門家委員会を設置して、選挙結果をなぜ間違えるに至ったのかを科学的に検証するそうです。こうした態度こそ参考にしたいと思いますが、「その答えは風の中に舞っている」ということでしょうか。
御後がよろしいようで。
次回の吉田徹のフライデー・スピーカーズは7月31日です。
「くじ引き民主主義」を考える。
去る統一地方選挙では、選挙の結果云々よりも、その前から無投票選挙の多さが注目されていた。千葉県や埼玉県などの首都圏でも無投票選があったから、地方に限った話ではない。道府県議選では選挙区の33.4%、総定数の21.9%が無投票で選出され、これは記録の残る1951年以来の高水準という。
地方自治体が果たすべき役割と期待がこれまでになく増す中、その民主主義が空洞化しているというのは、笑うに笑えない状況である。もっとも、人口流出といった構造的な流れや、議員のリクルートメントやインセンティブをどう育むかなどの制度的問題、各党の選挙戦略などが複雑に絡み、簡単な解決策は見出せそうもない。
ただ、旧来の代議制民主主義が空洞化しつつあるのは、どこの先進諸国でも一緒だ。そこで、ヨーロッパの運動家や政治学者らが注目しているのが、「くじ引き民主主義」だ。
なぜ「くじ引き」なのか。古代ギリシャや古代ローマ、あるいはルネッサンス期のイタリアまで、近代以前の民主政治では、統治者の選出にくじ引きが普通に用いられていた。古代ギリシャでは、行政官や裁判官を含む公職の約9割がくじで決まった。政治学者E.マナンの見立てでは、近代になって選挙を通じた代議制民主主義が採用されたのは、民主化を嫌った貴族層が自らの支配を正当化するための方策だったからだという。つまり、統治者と被統治者の同一性と平等性を前提にする「くじ引き」民主主義は、失われた民主政治のもうひとつの発展経路だったのである。
夢物語をいっているのではない。21世紀に入って、既存の民主主義が機能不全を起こしているとされる中で、再発見されたのは、このもうひとつの民主政治だった。アイルランドでは2012年に憲法改正内容を討議する「憲法会議」が設置されたが、その構成メンバー100名の過半数を占めたのは議員ではなく、くじ引きで選ばれた有権者66人だった。経済危機で破綻の憂き目にあったアイスランドでも、市民の発案でもって、2010年にくじ引きで選ばれた市民25人が新憲法制定会議に陣取った。
その他にも、(西)ドイツやアメリカの自治体では1970年代から、やはり抽選で選ばれた「市民陪審員」が政策形成に携わる制度や、デンマークでは倫理的な問題について討議する「コンセンサス会議」などで「くじ引き」が用いられている。カナダのブリティッシュ・コロンビア州では、抽選された市民が討議して決めた選挙制度を住民投票にかけるといった試みもあった。また自治体財政の支出の一部を市民自らが決めるといった制度を整えた国もある。
こうした動きを受けて、やはり地方議会での候補者不足に悩むフランスのあるシンクタンクは、地方議会の1割をくじ引きで選ばれた住民に割り当てるべき、と提言している。これらに共通しているのは、行政ではなく、飽くまでも立法のプロセスを一般有権者に開放することにある。
日本でも、司法の場では裁判員が抽選で決められている。ならば政治でも同じことができないわけがない。「衆愚政治に陥る」「ポピュリズムになる」といった指摘もあるかもしれない。裁判員制度が決まった時、死刑が増えることになるという指摘と同じだ。「プロ」に任せておいた結果が無投票選の増加なのだとしたら、もはや選択の余地はない。「能力」ではなく「資格」を条件にして、民主主義の空洞を埋める必要性に迫られている。
もちろん、全ての公職を多忙な市民に委ねることはない。古代アテネでも、軍事や財務に係るポストは専門家に任せられた。民主政治は単に市民の代表の定期的な選挙だけに還元されるものではなく、独立した司法や専門家委員会や、住民投票といった多種多様な回路が交差して成り立っている。そのメニューの中に「くじ引き民主主義」があっても、悪くはないだろう。
(『北海道自治研究』555号より転載)
(4月27日追記)
政治学理論家のヤン・エルスターも、「子供が能力じゃなくてくじ引きの結果たまたま学校に入れなかったと聞いて安心した」というある親の証言を引いて、「合理的選択論」などより、くじ引きの方が選択のためにはよほど公正=効率性が高い、と指摘します。
ちなみに日本でも総理大臣と衆議院議長をはじめ、公職者の選出には「くじ」が用いられる場合もあることを定めています(議院規則の第18条など)。こうみてみても「くじ引き」は決して荒唐無稽な選出方法ではないことが解ると思います。