大学での政治の「教育」を考える。

先のBlogosのエントリに日比嘉高「「自民党サークル」はありなのか――18歳選挙権と大学の中の政治」がありました。

ここで日比氏は、一般論として大学生が政治に関心を持つことは良いことだとしつつも、「政治団体が直接的に大学のキャンパス内の政治活動に関わってくるような事態については、私は大きなためらいと不安を感じる」として、その理由として、まだ大学生に政治的な免疫がなく、その結果として「学内で政治活動が高まったときに、何が起こったかもまた知っている」と、過去の学園紛争のことをあげています。

大学教員として、大学生を心配する気持ちは非常によくわかります。それでも、このエントリには少なからず違和感を持ちました。

 

まず、議論の整理が必要です。

日比氏は、「自民党のサークル」であることに警戒を抱いているようですが、しかし学園紛争時代の学生運動は、むしろ反体制的な政治組織がほとんどでした。与党組織が大学生を組織しようとした場合、どちらかといえば、大学生を時の政府の政策の理解を求め、そのリレー役を期待するでしょうから、それゆえ示唆されているような暴力志向にはなりずらい筈です。

また、政党のサークルが18歳選挙権を機に突如として誕生するかのような指摘がありますが、それも事実に反します。私が大学生の頃から、自民党系、共産党系、公明党系などの政治サークルは現に存在していましたし、今でも存在します。むしろ、こうした青少年を対象とした下位組織をきちんと持っていることこそが、政党政治においてヘゲモニーを握るために非常に重要だということがわかっているからこそ、自民党という政党の相対的な足腰の強さがあるのだと思います。

政党だけでなく、ありとあらゆる結社や団体が大学での組織を作っているアメリカやヨーロッパを知っていると、なぜ特段政党のサークルを危険視するのか、理解しかねる部分があります。もし与党のサークルだから危ないというのであれば、それは自由な政治活動を排除することになり、本来であれば、どの政党であろうが、自由に大学の支部を作るのが健全なことだと考えます。

次の点として、このエントリで思い出したのは、Blogosでの別のエントリでした。

ここで紹介されている文部省(当時)の通達は、高校での「政治的教養」の大切さを説きながらも、過度の政治的活動は好ましくなく、一定度の常識的な政治活動をするよう行うべし、というのが主旨になっています。全く方向は異なっているようではいても、「限られた範囲で良心的な政治活動なら認めるが、そうでないものは認めがたい」という、都合の良い政治活動観が優先している感じがあることは否めません。

ひとつエピソードを紹介します。

以前、大学での学生委員というのをやっていましたが、その際に大学内のパソコンでのファイル交換ソフトの使用が委員会で問題視されました。大学のパソコンで著作権に違反するようなダウンロードがあったと、著作権協会からの指摘があった、というのが事務方の説明でした。その結果、学生委員会は、事務方の提案に沿って、大学内のパソコンで交換ソフトを利用することを禁止することを決定しました。

私はこれに反対をしました。なぜなら、問題はファイル交換ソフトがインストールされて、それを利用することではなくて、違法な形でファイル交換をすることだからであり、それは人を殺す可能性があるから自動車の免許を与えないという論理のようなもので、本来の教育とはいかにファイル交換ソフトを適切に使いこなすかを教えることだからです。交換ソフトがどのようなメカニズムやマーケットのもとで動いているのかを知らないままに社会人を送り出すのでは、大学として全くの責任放棄であるとすらいえるのではないかーーそんな意見でしたが、もちろん、この種の委員会では予めの方針通りに事が運ぶのがおおよそなので、私の意見は聞き入れてもらえませんでした。

話を戻すと、先のエントリは、この大学の事務方の懸念と似ているのではないでしょうか。危ないからそこには触れさせないーーそうではなく、本来の政治教育とは、いかに政治が危ないものでありつつも、しかし私達の社会を創り上げ、運営するためには不可欠なものであるかを教えることにあるはずです。

政治にどっぷりつかりすぎるのもよくなければ、それに無関心であることもいけない。もし主権者としての教育をいうのであれば、必要なことは、それとの距離を主体的に決めれるような政治的な思考であるーーそれこそが、多くの政治学者が教えるところです。 

シティズンシップ教育論: 政治哲学と市民 (サピエンティア)

シティズンシップ教育論: 政治哲学と市民 (サピエンティア)

 

 

政治的思考 (岩波新書)

政治的思考 (岩波新書)

 

 

 日比氏は言います。

「新入生の不安定さにつけ込み、政治的な信条を植え付け(「オルグ」し)、利益誘導し、生活を巻き込み、そして卒業後の進路や思想までもコントロールしようという試みに見えてしまうのだ。「党員」にするとは、そういうことだ。」

しかし、政治学者としていえば、こうした行為はまさに政治に欠かすことのできないひとつの性質です。例えば、新入生が議員インターンシップをやるようなことも含めて、それは唾棄すべきことではないでしょう。

少なくとも、政治的主体とのインタラクションがなければ、その主権者はどのような信条を持つべきか、どのように自分の利益を定義し、どんな思想を持ち、その思想を広めるためにどのような組織と付き合うのかを決めることはできないでしょう。無から政治は生まれません。もっといえば、比較した場合、日本の主権者は政党や政治組織との関係性が薄いゆえに、政治不信が高い度合いに留まっているといえます。

大学生は政治とは無関係でいられるかもしれません。しかし、政治は18歳だろうがそうでなかろうが、大学生だからといって放っておきません。240万人の新たなマーケットが誕生するからです。そうであれば、まずは政治を端から忌避しないこと。意は尽くせませんが、それが18歳で主権者になるということの意味、大学ができる主権者教育のひとつなのだろうと思います。

「内山秀夫遺稿集刊行委員会」御中

謹啓

 惜春のみぎり、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。

この度は編『内山秀夫 いのちの民主主義を求めて』(影書房)を御恵投いただきましたこと、厚く御礼申し上げます。

刊行に当たっては、これまで何度か電子メールでやりとりをさせて頂いておりましたが、遺稿集作成の期間にちょうど在外研究中で身動きがとれなかったこともあり、何のお役にも立てなかったことを、まずは深くお詫び申し上げます。

それ以上に私が内山先生と知り合いになったのは、それほど長い期間ではなく、初めてお目にかかったのが1994年頃のこと、慶応法学部をすでに退職される間近のことだったと記憶しています。その後、新潟国際情報大学の学長になられた時に市内のご自宅に仲間の何人かとお邪魔させていただいたことがあり、その他にはやはり大多数で1、2回酒席(川原彰先生を介してだったか)をともにさせていただいた位の経験しかありませんでした。その程度の人間が内山先生の遺稿集作成に携わるのも恐れ多いという考えもありました。

ただ、それでも先生は当時の私にとっても人としての強烈な印象を残しました。その印象は、こうして先生の書かれた膨大な文章を拾い読みしても変わりません。ご自宅のトイレに太平洋戦争のフィクションものが詰まれていたり、キッチンから山のように缶ビールを出してきたり、誤訳の指摘にも丁寧に応じてくれたり、とエピソードは色々ですが、優しさの中の厳しさ、柔らかさの中の鋭さ、頑固さの中の柔軟さ、厳密さの中の曖昧さ、絶望の中の楽観さなどが、文章からも感じ取ることができ、それはそのまま私が感じた先生のお人柄と直結しています。

これまでも折に触れて内山先生の書かれたものを拝読する機会はありましが、こうしてまとまった形で読めることは大変に有難く、そのような労をとられた長谷川様とお仲間の皆様に感謝せざるを得ません。研究者だけでなく、弟子というよりもゼミ出身者がまとめられたというのも、内山先生の何よりの遺産かもしれません。

私も政治学者の端くれとして日々悩んでいますが、その中で自然と、物事や状況と馴れ合って、思考をとめてしまっている瞬間があります。内山先生はおそらくそのような馴れ合いを許されない経験を生きておられたのだと察しますが、そうした意味で、政治学者として今のタイミングで先生のものを再読して、改めて、この学問が目指すべきところのもの、大事にすべきもののところを諭してもらったように(あるいはそれを考えるべきと誘ってもらったように)感じました。そうした意味でも御礼を申し上げたく、一筆させて頂きました。

全てを意に尽くすことできませんが、略儀ながら書中にて御礼申し上げます。末筆ながら、寒暖激しい折、どうぞご自愛を下さいますようお祈り申し上げます。

謹白

 

いのちの民主主義を求めて

いのちの民主主義を求めて

 

(以上は、本をお送りいただいた内山先生のお弟子さんのお一人にしたためたお礼状の写しです。 内山先生の文章をめくっていくと、「人間」という言葉に何度も出会います。人間を信じ、人間に傷つき、それでもなお人間をあきらめないというのが、内山政治学の根本なのではないかと、改めて感じます)

 

「吉田徹のフライデー・スピーカーズ」三角山放送局(5月29日)でした選曲。

「こんにちわ、吉田徹のフライデー・スピーカーズです」というのも、5月で二回目になりました。まだ慣れません、誰にも向かって喋らないという、このラジオというコミュニケーション。

www.sankakuyama.co.jp

ラジオといえば、やはりルーズヴェルトの「炉辺談話」なんかが思い出されます。最近読んだ本で知ったのですが、ラジオ放送に際して彼は入念に何度もリハーサルをして、最もポピュラーな英単語1000語しか使わず、話したそうです。中々そういう風にはいきません。 

三つの新体制――ファシズム、ナチズム、ニューディール

三つの新体制――ファシズム、ナチズム、ニューディール

 

 そんなエピソードも盛り込まれているこの本、シヴェルブシュの本に漏れず、余りにも面白いので、近々書評をする予定です。

 

さて、今回のフライデー・スピーカーズは、5月7日に投開票があったイギリスの総選挙の総括と今後、ブックレビューのコーナーでは岩本裕『世論調査とは何だろうか』(岩波新書)を取り上げました。

 

イギリス総選挙のポイントは、

-ほとんどの予想を裏切ってハングパーラメントとはならなかった。

-そうした意味で二大政党制が復調したかのようにもみえるが、労働党金城湯池だったスコットランドのほとんどの議席をSNP(スコットランド国民党)が奪ったこともあり、質的にはやはり二大政党制は瓦解過程にある。

-主要政党の党首のほとんどが40代、半分は女性、立候補者もジェンダーでみれば4分の1が女性といったこともあり、これからますます多様なダイナミズムが生まれるはず。

スコットランドの英国からのエグジット(圧力)、英国のEUからのエグジット(圧力、この入れ子構造的なダブル・エグジットに注目すべし。

という風に解説をしました。

 

とはいえ、何と言っても今回の総選挙の敗北者は、どこもハング・パーラメントを予測した世論調査でした。

ということで、ブックレビューのコーナーではずばり『世論調査とは何だろうか』という新刊を取り上げて、紹介しました。 

世論調査とは何だろうか (岩波新書)

世論調査とは何だろうか (岩波新書)

 

 著者の岩本さんは、長年NHKの記者と解説者を務め、今はNHK放送文化研究所で実際に世論調査に携わっている方で、非常に平易な形で、素朴な疑問点にも丁寧に解説を施しています。ブータンの幸福度調査には大きなトリックがあり、その結果、同国は世界で一番幸せな国として有名になった、といった小ネタもあります。

 

詳しくは、三角山放送局ポッドキャストでどうぞ。

http://www.sankakuyama.co.jp/podcasting/endo.html

 

ちなみに、流した曲はもちろん、著作権の問題でポッドキャストでは聴けません。前回もそうでしたが、番組で取り上げるテーマと関連した曲を毎回選んでいます。今回は以下のラインナップでした。

1.Elvis Costello - Shipbuilding Elvis Costello - Shipbuilding - YouTube

日本ではロマンチックな曲を歌うことで知られるコステロですが、この曲はサッチャー政権時代のフォークランド紛争を題材にしたもの。戦争のための造船で潤う父親の息子が出兵している、というストーリーです。戦争の矛盾を痛ましく歌っています。

 

2.Genesis - Land Of Confusion Genesis - Land Of Confusion [Official Music Video] - YouTube

86年発表のヒット作です。イギリスの人形風刺劇Spitting ImageをPVで使ったことで有名です。サッチャーレーガンカダフィ大佐なんかが出てきます。

 

3. Annie Lennox - Walking on Broken Glass Annie Lennox - Walking on Broken Glass - YouTube

これは政治色はありません。単にアニー・レノックススコットランド出身で、熱心な慈善活動家でもあるという流れです。

 

4.Chumbawamba - Tony Blair Tony Blair- Chumbawamba Ltd Edition single (with lyrics) - YouTube

「Tubthumping」で一躍有名になったChumbawambaですが、筋金入りのサッチャー嫌いでも有名でした。この曲は、97年に政権交代を果たしたブレア首相を「お前の約束したことは全部ウソだったじゃないか」と首相を「嘘つき」と張り倒しています。

 

5.Boy George - The Crying Game BOY GEORGE The Crying Game - YouTube

これも特段メッセージ性のある曲ではありませんが、ニール・ジョーダンIRA紛争を描いた同タイトルの感動的な映画にちなんで。この曲はリメイクなのですね。

 

6.Billie Holiday - Strange Fruit Billie Holiday - Strange Fruit - YouTube

1937年の曲。「Strange Fruit=奇妙な果実」とは、当時のアメリカ南部で横行した黒人のリンチで、死体を木にぶら下げていたことを表現しています。『世論調査とは何だろうか』の中で、1936年の大統領選の際にフランクリン・ルーズヴェルトの勝利を見事的中させた米ギャラップ社の話が紹介されていたので。

 

7.Bob Dylan -  Blowin in The Wind Blowin in The Wind - Bob Dylan - YouTube

60年代のアメリカの公民権運動での代表的なプロテスト・ソングです。「友よ、答えは風の中に舞っている」とさわやかな答えに対する問いは「どれ位の死者が出れば、余りにも多くの死者だと彼はわかるのだろう?」だったりします。。世界広しとはいえども、兵士だから死ぬかもしれないのは当たり前、といえる国の指導者はそう多くいない筈です。

 

ちなみに、『世論調査とは何だろうか』では、近年、ネット調査を取りいれた調査会社のユーガブ(YouGov)に注目して論じています。この会社はもともと、労働党の広報戦略を担っていた人物を含め、保守党の政治家なども参加して立ち上げた若い会社ですが、瞬く間に、世界的な知名度を確立しました。日本でも自民党がITの広報戦略に重点を置いたり、逮捕された川口浩氏も政治家だった経歴を活かしたことなどもありますが、やはりそこに至るほどの「成熟度」はないようです。

それでも、ユーガブも今回の総選挙はハングパーラメントになる、と予想していました。現在、イギリスでは世論調査会社で作る「英世論調査協議会(British Polling Council)」が専門家委員会を設置して、選挙結果をなぜ間違えるに至ったのかを科学的に検証するそうです。こうした態度こそ参考にしたいと思いますが、「その答えは風の中に舞っている」ということでしょうか。

 

御後がよろしいようで。

次回の吉田徹のフライデー・スピーカーズは7月31日です。

 

 

「くじ引き民主主義」を考える。

去る統一地方選挙では、選挙の結果云々よりも、その前から無投票選挙の多さが注目されていた。千葉県や埼玉県などの首都圏でも無投票選があったから、地方に限った話ではない。道府県議選では選挙区の33.4%、総定数の21.9%が無投票で選出され、これは記録の残る1951年以来の高水準という。

 

 地方自治体が果たすべき役割と期待がこれまでになく増す中、その民主主義が空洞化しているというのは、笑うに笑えない状況である。もっとも、人口流出といった構造的な流れや、議員のリクルートメントやインセンティブをどう育むかなどの制度的問題、各党の選挙戦略などが複雑に絡み、簡単な解決策は見出せそうもない。

 

ただ、旧来の代議制民主主義が空洞化しつつあるのは、どこの先進諸国でも一緒だ。そこで、ヨーロッパの運動家や政治学者らが注目しているのが、「くじ引き民主主義」だ。

 

 なぜ「くじ引き」なのか。古代ギリシャ古代ローマ、あるいはルネッサンス期のイタリアまで、近代以前の民主政治では、統治者の選出にくじ引きが普通に用いられていた。古代ギリシャでは、行政官や裁判官を含む公職の約9割がくじで決まった。政治学者E.マナンの見立てでは、近代になって選挙を通じた代議制民主主義が採用されたのは、民主化を嫌った貴族層が自らの支配を正当化するための方策だったからだという。つまり、統治者と被統治者の同一性と平等性を前提にする「くじ引き」民主主義は、失われた民主政治のもうひとつの発展経路だったのである。

 

 夢物語をいっているのではない。21世紀に入って、既存の民主主義が機能不全を起こしているとされる中で、再発見されたのは、このもうひとつの民主政治だった。アイルランドでは2012年に憲法改正内容を討議する「憲法会議」が設置されたが、その構成メンバー100名の過半数を占めたのは議員ではなく、くじ引きで選ばれた有権者66人だった。経済危機で破綻の憂き目にあったアイスランドでも、市民の発案でもって、2010年にくじ引きで選ばれた市民25人が新憲法制定会議に陣取った。

 

 その他にも、(西)ドイツやアメリカの自治体では1970年代から、やはり抽選で選ばれた「市民陪審員」が政策形成に携わる制度や、デンマークでは倫理的な問題について討議する「コンセンサス会議」などで「くじ引き」が用いられている。カナダのブリティッシュ・コロンビア州では、抽選された市民が討議して決めた選挙制度を住民投票にかけるといった試みもあった。また自治体財政の支出の一部を市民自らが決めるといった制度を整えた国もある。

 

こうした動きを受けて、やはり地方議会での候補者不足に悩むフランスのあるシンクタンクは、地方議会の1割をくじ引きで選ばれた住民に割り当てるべき、と提言している。これらに共通しているのは、行政ではなく、飽くまでも立法のプロセスを一般有権者に開放することにある。

 

 日本でも、司法の場では裁判員が抽選で決められている。ならば政治でも同じことができないわけがない。「衆愚政治に陥る」「ポピュリズムになる」といった指摘もあるかもしれない。裁判員制度が決まった時、死刑が増えることになるという指摘と同じだ。「プロ」に任せておいた結果が無投票選の増加なのだとしたら、もはや選択の余地はない。「能力」ではなく「資格」を条件にして、民主主義の空洞を埋める必要性に迫られている。

 

もちろん、全ての公職を多忙な市民に委ねることはない。古代アテネでも、軍事や財務に係るポストは専門家に任せられた。民主政治は単に市民の代表の定期的な選挙だけに還元されるものではなく、独立した司法や専門家委員会や、住民投票といった多種多様な回路が交差して成り立っている。そのメニューの中に「くじ引き民主主義」があっても、悪くはないだろう。

(『北海道自治研究』555号より転載)

 

(4月27日追記)

 政治学理論家のヤン・エルスターも、「子供が能力じゃなくてくじ引きの結果たまたま学校に入れなかったと聞いて安心した」というある親の証言を引いて、「合理的選択論」などより、くじ引きの方が選択のためにはよほど公正=効率性が高い、と指摘します。

www.booksandideas.net

 ちなみに日本でも総理大臣と衆議院議長をはじめ、公職者の選出には「くじ」が用いられる場合もあることを定めています(議院規則の第18条など)。こうみてみても「くじ引き」は決して荒唐無稽な選出方法ではないことが解ると思います。

 

 

「右傾化」は「左傾化」とともに。

4月11日の朝日新聞(朝刊)で掲載された「右傾化」についてのインタビューに刺激されたわけではありませんが、「右傾化」を論じる場合は、国を問わず、中々に難しいものがあるようです。

(ちなみにさやわかさんの議論のするどさに驚嘆しました)

私のフィールドのフランスの事例でいうと、極右・国民戦線の台頭などもあり、やはり2000年代に入ってから「右傾化(droitisation)」の議論がされてきました。確かに社会が「ぎすぎす」してきて、治安や安全保障についての争点が訴求力を持ってきたという意味で日本と似ているのですが、他方ではかなり綿密な意識調査をしてみると、異文化や他者への寛容度はむしろ高まっているというようなデータもあり(こうしたデータは上のインタビューでも指摘されています)、中々まとまったことは言えないというのが相場になっています。アメリカでも、マイノリティに対する寛容度が高まる一方、政治的急進主義が進んでいるという実態があります。

その「微妙さ」を前提としないで、「右傾化している」ということを所与として語っているのは中野雅至さんの本かもしれません。

色々と「脇の甘い」部分もある本ですが、「日本は右傾化しているのか?」を問う議論を展開しているというよりも、「右傾化とは何か、なぜ生じるのか?」という問いに答えている本として読むべきなのだと思います。

一方で、独自の調査でもって、特に若い世代は「右傾化」していない、とする論者もいます。

ただこの本も、既存の右傾化している日本の保守思想・言論へのアンチテーゼを打ち出すのがメインになっており、果たして実際に右傾化しているのかどうかについては、データが偏っていることもあり、やはり判然としません。

さて、「右傾化しているのか?」ということを考えた時、実際にはどうなのでしょうか。

ネトウヨ」という呼称が一般化して極右的な言説が垂れ流され、反韓デモにヘイトスピーチ、「マスゴミ」批判のシュプレヒコールをみると、確かに「右傾化している」と言いたくなります。2014年の都知事選では田母神俊雄候補が獲得した61万票のうち、得票数の4分の1(24%)が20代だったことを取り上げて、若者の右傾化とする議論もあります(ただ、投票率をみればこれはやや言い過ぎではないか、という上の古谷経衡の指摘もありました。そもそも世界の中で最も厭戦意識の高い青年層を抱えているのは日本です)。

ここではこうした論争に決着を付けることなど到底できません。ただ、いくつかの手がかりを提示できればと思います。

ただこうした議論を展開する場合、やはり何を持って「右傾化」とするのかという基準が明らかでないと曖昧な議論にしかなりません。恣意的な基準を避けて、一番簡単なのは、自らをどう位置づけているのかということを訊ねることです。

そうすると、国際比較調査の「世界価値観調査」では、2005年に自らが右寄りでも左寄りでもないと考える日本の有権者は、7割近くと、圧倒的多数を占めることになります。これは新聞社による同じような世論調査でも同様の傾向が出ます。

他方、NHK放送文化研究所の調査(2010年)によると、「保守的」と自己定義する有権者は60%、「革新的」とするのは38%でした。また、内閣府の「社会意識に関する世論調査」でみると、2005年をボトムに「個人の利益より国民全体の利益を大切にすべき」という意識が2005年には最低の37%だったのが、2013年には53%に増えています。さらに「国を愛する気持ちの程度が強い」とする有権者が2000年には46%と最低だったのが、2008年に57%、2013年に58%と右肩上がりになっています。これだけを拾うと日本が「右傾化している」という指摘は正しいかのようにもみえます。

ただ、そうした場合、問われるべきは日本の右傾化は安倍政権自民党政権云々の話ではなく、もっと長いトレンドの中で捉えなおすべき事象であり、北朝鮮をめぐる危機、中国の台頭、3.11によるセキュリティ重視志向など、複数の要因が絡んでいると考えなければなりません。

もうひとついえば、右(傾化)という概念は、左(傾化)という概念と対になっていることを前提にしないとなりません。右も左も、相対的な概念だからで、絶対的に論じることはできません。

歴史的には、右派的価値は「個人」や「伝統」を重視すること、左派的価値は「平等」や「理性」を重視することと考えられてきました。それに最近では「秩序」や「権威」を重んじる「保守」、「自決定権」や「自律」を重んじる「リベラル」の軸が交差するようになりました。

言い換えれば、価値をめぐる問いがあってはじめて「右傾化」しているかどうかを論じることが可能になるのです。一言に「右傾化」といっても、政治と経済、社会で「右傾化」が何を意味するかは矛盾することがあります。例えば政治での「権威」と「経済」での自由競争は対立することがあり、さらに「保守」と「右派」、「リベラル」と「左翼」も同義ではありません。

何れにしても、「右傾化」の是非云々以前に、まずはそのセットとなる「左派的価値」がどう再定義され得るのか、そこから対立線上に「右」や「保守」を位置づけるということも考えるべきではないでしょうか(それゆえ、「9条改正」と「改正反対」が最もわかりやすい右と左の事例だったりするのです)。その様々なマトリックスを完成させて、はじめて右傾化についての議論が可能になるように思います。言うなれば現下の「右傾化」をめぐる議論が混乱しているのは「左傾化」の議論が不足してるからと言えそうです。

ちなみに、その際に大事にしなければならないのはイギリスの心理学者アイゼンクの指摘でしょう。アイゼンクは戦後イギリスの保守党、自由党の支持者が「柔らかい心」を持っていて、共産主義者やファシストが「堅固な心」を持っているという調査をしています。この「堅固な心」に対していかに戦うか――それが今の時代の「左派的価値」の再定義につながる筈です。