「『55年体制』に政治の本質をみる」(大阪版 毎日新聞夕刊3月26日付「ぶんかのミカタ」より転載)

  今では誰もが当たり前に使う「55年体制」という言葉は、半世紀も前に政治学者の故升味準之助氏が発案したものだ。彼は「現在の政治体制の構成がいつできたかときかれれば、私はためらわず1955年と答える」とその論文「1955年の政治体制」(1964年)で書き、この言葉は70年代になって人口に膾炙するところとなった。

 ここで言う55年体制とは、工業化に伴い自民党社会党の票田が全国に拡散したために、両党とも組織化を余儀なくされ、これが利益団体と官庁との癒着、派閥の誕生を促す、というものだった。枡味氏は、保革のイデオロギーは違えども、似たような利益媒介と組織構造を持ち、議会で馴れ合う構造を「55年体制」と呼んだ。

 面白いのは、升味氏が55年体制とは、何らかの長期的な意図によってなされたものではなく、社会党自民党が単に互いに票を競い合うために選択した偶然の結果だ、としたことである。いわく、それは「耐震計算も水圧計算もなされていない」「かりそめのダム」でしかなかった。必然ではなく、偶然としての体制だったのだ。この体制は時代を追うにつれて堅牢で強固になっていったが、少なくとも最初の10年くらいは、まだ不確かなものに見えたのである。

 この55年体制は1993年に自民党の下野でもって終焉を迎える。しかしそのスタートが計画的でも意図的でもなかったのと同じく、その破壊も偶然だった。それは竹下派の後継争いの結果から起こったからだ。前年の参院選自民党が勝利していたことを考えても、崩壊は予期されたものではなかった。

 それから15年後、政治主導と脱官僚を唱え、結党から10年をかけて一貫して政権交代を計画的に追求してきた民主党は、2009年に念願を果たした途端に失速をしていった。当時の民主党マニフェストにみられるように、入念に準備されたポスト55年体制は、むしろとても脆弱で、数年と持たなかった。

 計画されたものよりも、偶然に始まった政治の方が柔軟で持続する――ここに歴史の皮肉がある。15世紀の思想家マキャべリは『君主論』で政治が持つ固有の特性を説明して、それは科学などではなく、その時々に襲い掛かってくる「運命」をどう統御するかの戦いでしかない、と強調した。そして、「運命の女神」は果敢で乱暴で大胆な政治家にしかほほ笑まないとした。鳩山由紀夫氏が政界入りした時のスローガンが、「政治を科学する」というものだったことを思い出すと、マキャべリのこの言葉は示唆的である。

 しかし、そう考えると、運命の女神を味方に付けたかのようにみえる、今の首相の思惑も実現しないかもしれない。今まさに手をかけようとしている「戦後体制(レジーム)からの脱却」は、安倍晋三氏が10年も前からを唱え続け、政権に復帰してからも準備に準備を重ねてきたものだからだ。彼が主張するように、「戦後体制(レジーム)」はかりそめのものだったかもしれない。しかし、政治とは常にその主人公たちの思惑を超えて展開していくものだとしたら、実はそう簡単に瓦解などしないダムであるのかもしれないではないか。

 

(※脱稿時のものなので活字になったものと若干の相違があります。普段は活字プレスの論考などは転載しないのですがローカル版かつ夕刊ということで許して下さい)。

 

青少年の国際意識比較調査(フライデースピーカーズ/三角山放送局で話したこと)。

 

この間は、FMラジオの三角山放送局(@札幌)での初メインスピーカーでした。2時間の番組ですが、曲とCM入れれば実質トークの時間は1時間強、意外とすぐに終わってしまいます。

www.sankakuyama.co.jp

隔月で最終金曜15:00からの番組で、北大公共政策大学院の同僚の遠藤乾さんと交代で担当します。

遠藤先生の場合はほとんど毎回ゲストをお呼びしているように記憶していますが、私の場合は、コーナーを2つ作ってお届けすることにしました。

1つ目は、その時々の時事解説「ニュースそこが知りたい」。

2つ目は、話題の本やピックアップした本を紹介する「ブックガイド」です。

 

3月27日の放送の①「ニュースそこが知りたい」では、投票年齢の18才引き下げについて、②「ブックガイド」ではまだまだ話題の(いまさらの)T.ピケティ『21世紀の資本』の内容を、著者の人となりとともに紹介しました(ちなみにこの本の最大の裏メッセージは、人類は戦争がないままに平等な社会を築くことができるのかだろうか、という問いかけだろうと思います。イギリスやアメリカの所得税や資本課税は戦争遂行のために設けられたものでもあります。)。

 

①で話したポイントは以下の4つです。

-投票権の18才への年齢引き下げは日本の民主主義のいわゆるグローバル・スタンダード化。

-ただそれだけで若年層の投票率が上がるとは考えにくい(これは3月6日付けの日経新聞にコメントしました)。

-引き下げは憲法改正を視野に入れた国民投票法と関係していること。

-選挙だけでなく、成人年齢も併せて引き下げられることも附則として法案には盛り込まれており、そうすると少年法や消費者法などに大きく関係してくること。

 その上で、日本の青年層の政治や社会への関心が低くないこと、他方で強い不満を持っていることをいくつかの数字で紹介しました。細かい数字なので、以下、再掲しておきます。

 

よく引かれることもある文部科学省「世界青年意識調査」(日本、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、韓国の18歳から24歳を対象にした2009年の調査)によると:

日本の青年で政治に関心があるとする者の割合は58%(ちなみに2003年には47%)

アメリカ(54%)、韓国(50%)、フランス( 43%)、イギリス( 33%)を押さえて6カ国中トップ。また、ボランティア経験への関心も高い。

 

シンクタンク「政治革新財団(Fondapol)」による25カ国(アメリカ大陸、西欧、東欧、中東などの16〜 29歳)の青年を対象にした調査(『世界の若者』2011年):

-日本の青年のうち「人生に満足している」と回答しているのはわずか45%(各国平均77%)。
経済的な不満については、日本75%(平均59%)、

仕事への不満については、日本60%(平均43%)

自分を社会の一員であると感じるとする回答は64%(各国平均74%)

上の世代の年金を負担することについて50%が反対、35%が賛成(アメリカは反対

47%賛成41%、カナダは反対17%賛成77%、ドイツは反対36%賛成56%)

-「人は選択・行動によって社会を変えられると思うか」という問いに対して、否と答えた日本の青少年は70%(25カ国中ハンガリー( 65%)に次いで最も高い数字)

-投票は義務だと思うかという問いに対して、正と答えた日本の青年は 80%(平均81%)。

 

色々と留保はつけられますが、こうみてみると、日本の青年は政治や社会に関心をそれなりに持っているものの、国際比較でみれば(色々な意味でこの点を強調しておきますが)自分を取り巻く環境については強い不満を持つとともに能動的な変革の意識は低く、他方で世代間の負担については冷淡である、といった傾向を持つことが伺えます。

 

北海道知事選公開討論会観戦記、もしくはイグナティエフの新刊。

去る3月19日に、札幌は道新ホールで現職知事の高橋はるみ候補者と共産党を含む野党からの公式・非公式の推薦を獲得した佐藤のりゆき候補者の公開討論会を傍聴してきました。北海道新聞の招待企画で、そうでもなければ、深夜のテレビ放送か、ネットで観たに違いありません。

でもやはり、実際に足を運んでみるものです。大方の(?)予想に反して、会場はほぼ満席、討論の最中にも野次が少なからず飛んで、多いに盛り上がった討論会でした。それだけの注目や期待が集まっている、ということなのだろうと思います。

以下は、3月21日付け『北海道新聞』に掲載された「観戦記」です。当該インタビュー部分のみ、転載します。

 

公開討論会を聴いて*北大公共政策大学院 吉田徹准教授 「泊再稼働」選挙戦の注目点□

 道知事選の公開討論会を北大公共政策大学院の吉田徹准教授に傍聴してもらい、評価と感想を聞いた。
          
 観光振興や地域医療の充実など、両氏の政策の方向性に大きな違いを見いだせなかっただけに、北電泊原発再稼働についての対応が異なったのは印象的でした。佐藤氏は再稼働を容認しないと明言した一方、高橋氏は国の判断を待つとして賛否を明らかにしませんでした。
 再稼働問題は容認、反対いずれを表明してもさまざまな評価にさらされ、プラス、マイナスどちらに働くかは未知数です。現職に挑む立場の佐藤氏は、そのリスクを取り、高橋氏は戦略的に留保を選んだように感じました。両氏の立場表明が今後の選挙戦にどのように作用するか、注目すべき点の一つになりうるでしょう。
 佐藤氏は道内の人口減少や道民所得の低迷などの現状を訴え、現職の道政批判につなげていました。ただ、高橋氏のどのような政策がそうした結果を招いたのかについて具体的な指摘は乏しかったと感じます。もう少し踏み込んだ内容があれば実りある政策論争に発展したかもしれません。
 4選を目指す高橋氏も、多選批判を受けてでも出馬する動機について説得力のある答えを聞くことができませんでした。理由に人口減少問題への取り組みを挙げましたが、これは長年の課題。4期務めなければ実現できない政策を示すことが求められています。
 今回、あまり語られなかった地方自治や道議会改革への姿勢など、投票日までに見極めたい点があります。どちらが道民の本当の味方になるのか、投票判断材料を提供するためにも、両氏は自身の考えを広く伝える機会を一層多くつくるべきでしょう。

(以上)

 

何れにしても理と情、静と動、陰と陽と、コントラストの効いた両候補者であるように思います。

もうひとつのコントラストは、「外」と「内」。高橋知事が中央と海外を意識して発言・政策を構想するような、いわば「インバウンド」な姿勢であるのに対して、佐藤候補は、まず北海道を変革してその上で魅力を対外的にアピールしていくような「アウトバウンド」な姿勢であったように感じます。

何れにしても、色々な意味で自分の一票を何れに投じるのか、試される選挙になるのかもしれません。

統一地方選とは関係なく、個人的には、先の総選挙で落選した前職の議員さんと久しぶりにゆっくり懇談できたのが最近の収穫でした。激励とお疲れ様の意味も込めて、イグナティエフの新刊を贈らせて頂きました。 

火と灰―アマチュア政治家の成功と失敗

火と灰―アマチュア政治家の成功と失敗

 

 イグナティエフは国際政治で人道的介入論の論者として有名なジャーナリスト・エッセイスト・研究者で、母国カナダの自由党の議員、次いで党首になった人で、この本はその彼が落選するまでの奮闘記です。

先の前職の議員さんも「感銘を受けた」と寄せてくれました。どんな選挙でも落選はつきもの。落選した全ての政治家に、その政治家を応援していた支援者、あるいはこれから政治家に挑戦しよう、と思っている全ての人々にお薦めしたい本です。

 

曽野綾子氏が問題提起したこと

論じ尽くされた感はありますが、先の産経新聞での曽野綾子氏のコラム「『適度な距離』保ち受け入れ」での南アフリカアパルトヘイトに賛意を示すような言説はもちろん容認されるようなものではないでしょうし、それ以上に南アで融和に努めてきた関係者の努力を全く認めないような物言いは到底支持できるものでもありません。

http:// http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/10/sankei_n_6657606.html

批判が巻き起こってからの曽野氏へのインタビューと同氏の反論

 

 

ただ、一方で氏が問題提起したことが何だったのか、ということをきちんと受け止めた上で批判するような言説も求められていると思います。氏の言説をDisるだけでは、相手と変わる所がありません。

 

どういうことか。

 

とりわけ問題だとされた箇所は以下の文章でした。

南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」

政治的に正しくないとされることをあえていうのが保守反動の特徴なので、アパルトヘイトを引き合いに出して居住区を分けるべきというのはある種のレトリックです。そうではなく、集団的な文化的アイデンティティ(ここにはエスニシティや肌の色やセクシュアリティなど多様なものを含むものとします)を核にして、互いの集団を区別しておいた方がいい、という思考様式こそが、曽野氏の主張の本丸だといえるのではないでしょうか。彼女の「差別ではなく区別」という、この種の主張にあり勝ちな説明も、この解釈を裏付けます。

 

問題は、実際にこうした文化的なアイデンティティが居住をめぐって問題を起こす可能性がある、という現実です。

曽野氏が念頭に置いている先進国での移民受け入れの事例を見た場合、実際に居住地区に新たな文化的アイデンティティを持った人々が住み始めて、両者の混在がトラブルになるということは実際に起きています。

例えば、フランスのパリ地方の典型的な「庭付き一戸建て」の分譲住宅地が集中する土地では、その土地に移り住んできた中産階級が高齢化を迎え、新たに移民層がその土地に増えていっていることで、政治的に保守的になっていくといった社会学の定点観測があります。

Amazon.fr - La France des "petits moyens" : Enquêtes sur la banlieue pavillonnaire - Marie CARTIER, Isabelle COUTANT, Olivier MASCLET, Yasmine SIBLOT - Livres

 2012年のフランス大統領選では、都市部中心を起点として、極右FN(国民戦線)の得票地域に波があること、つまり都市部中心では得票率低、周辺部・郊外で高、田園地方では再び低という、居住地で綺麗な相関があることが発見されています。これも、移民を含む文化的ダイバーシティを脅威に感じる層と、実際に脅威に感じる層が、居住区で分かれていることから生じている投票行動だと分析されています。

 フランス以外でも、2011年にロンドン郊外で起きた暴動は、所得やエスニシティがむしろ混在していた地区で多発したという指摘もありました。

 

繰り返しになりますが、だからといって曽野氏のいうように「居住区を分けて住むこと」が文化的な摩擦や軋轢を回避するためには望ましいとするような言説や主張が正しいといっているわけではありません。しかし、もし移民を含む異なる文化的アイデンティティを持つ人々を脅威に感じる人たちがいるとして、そしてそのような人々が曽野氏のような言説や主張を支持するとして、それでは、そのような意見にどのように反論すべきかについてまずはきちんと考えておかなければ、この種のものは(当然のことながら)「倫理的・道徳的に正しくない」「政治的に正しくない」から排除されるだけで、その思考や実感は是正などされることなく、結局イタチごっこになりかねません。

 少なくとも移民を含む異なる文化的アイデンティティを持つ人々を脅威に思っている国民が多いと思われるからこそ、移民受け入れ政策や外国人の地方参政権をめぐる方針は、議論はされても、そのまま店晒しになってしまっているというのが現状です。

 

こう考えると、例えば斎藤環氏の曽野綾子が「キャラ」であることを許してしまうことが問題という指摘ももっともかもしれませんが、そのように彼女を嘲笑したからといって、事の本質が抱える問題は解決しません。

http://www.asahi.com/articles/DA3S11617257.html

 

曽野氏を糾弾するだけでなく、反対者が持つ世界観を超えた上でなお、なぜ人々は「分けて」住まない方がいいのか、きちんと論理的に反論するのでなければ、曽野氏の主張や指摘は支持され続けることになるのではないか、そのことを危惧します。

 

テロと左派、フランスより。

先のマイケル・ウォルツァーの論考「イスラム主義と左派」に続いて、Slate.frに掲載されたフランスの政治学者ローラン・ブヴェの「シャルリ・エブドという最悪の事態を二度と生まないために必要なこと」をシノドスにアップしてもらいました(岡本託さんとの共訳)。 

 


シャルリ・エブドという最悪の事態を生まないために必要なこと / ロラン・ブヴェ / 政治学(翻訳 / 岡本託、吉田徹) | SYNODOS -シノドス-

 

※なお、ウォルツァーの論考は訳についての指摘を何点か頂いたため、その検討を含めて現在ブラッシュアップ&オーバーホール中です。近日中に再度アップすることになるかと思いますので、いましばらくお待ち下さい。

 

ブヴェの論考はフランス版Slateに寄せられたものですが、先のウォルツァーのものと同様、イスラムフォビアと左派との関係を指摘した上で、宗教的ラディカリズムと政治的な自由との兼ね合いを遡上に載せるものです。

 

なぜイスラムないし宗教過激主義と左派の関係を問わなければならないのか。論点は多岐に渡りますが、一連の翻訳をした中にはひとつの問題提起がありました。

 

現代においては、左派と保守(右派)を分ける大きなメルクマールのひとつが個人の行動基準をめぐってのものです。例えば、青少年犯罪や専業主婦についての議論などに典型ですが、個人選択は個人の選択なのか、社会的環境や条件によるものなのか、という判断によって、対処すべき方法が異なります。

 

多くの場合、左派は社会的環境や条件が個人の行動を導くものだから、個人を断罪するのではなく、まず環境を改善しなければならない、と論じます。他方の保守は、個人の自由には義務が生じるのだから、そのためだけに社会環境を変化させる必要はないだろう、と論じます。少年犯罪があったとして、経済社会問題としてみるのか、あるいは厳罰化を主張するのか、といった違いです。

 

これは、とりわけホームグロウン・テロの場合にも当てはまる議論です。

テロを起こした人間がいるとして、それは社会の問題なのか、本人の問題なのか。

 

左派が、それは社会の問題だといった場合、しかもそれが彼らがマイノリティだからだ、といった場合、どうしてもテロ擁護の雰囲気を漂わすことになります。しかも(ここははしょって論じますが)、もし社会的環境を変えなければならない場合、宗教的なものに対してどう対処するのかを明示しないとならず、マイノリティの宗教への権利と宗教の中身との関係にも踏み込んで論じなければなりません。

 

テロの問題をめぐって、突きつけられている問いのひとつはこうしたことなのでしょう。実際、日本でも問題は異なれど、同じような言説がいつも再生産されています。テロの政治的機能のひとつとして、恐怖を与えるというだけでなく、敵意を増産させて、政治的な友敵関係を作り上げ、踏み絵を踏ませるというものがあります。左派はこうした状況にどう対処するのか、すべきなのかーーこうした問いについては、無意識の上で論じられていても、そうした土壌の上で論じなければならないということについて意識して、言説を作っている論者は日本では中々見受けられません(いないわけではありません)。

 

ちなみにテロが人為的に作る友敵関係については、やや劇画的ですが、この映画がものすごく端的に表象しています(ハリウッドで入りやすいし)。 

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 それゆえ、ホームグロウン・テロについて敏感でなければならず、宗教的なものについても現実の問題として抱えている海外の論にヒントを求める、ということになりました。

 

なお、今回リサーチしたのはアメリカの雑誌中心で、New Republic,Nation,The Atlantic, Dissent, The New Yorker, New York Review of Booksなどでした。その中で目に留まったのが、Dissent誌の編集に長く携わっていたウォルツァーの論考でした。

 

フランスのメディアの方が馴染みがありますが、逆に知りすぎていて、全部をリサーチする訳にはいかないので、個人的に学者、研究者、ジャーナリスト等にメイルを出して、事件についての論考で気に入ったもの、注目すべきものがあったら教えてくれるよう、お願いをしました。その中で出てきたのが、冒頭の論考です。

 

さて、このローラン・ブヴェという政治学者の名前を聞いたことがある人は日本では(専門家でも)ほとんどないかと思います。

 

彼は98年に博士号をとった後に、10年ほどニース大学で教鞭をとった経歴を持っていますが、その博士論文はピエール・ロサンヴァロンのもと、アメリカの自由主義についてのものでした。ロザンヴァロンがアメリカの自由主義について感心を持ち始めたのが90年代以降ですから、それと軌を一にしている知的変遷だろうと推測されます。

 

また、彼の名前はもしかしたらフランス社会党の理論誌『社会党レビュー(Revue Socialiste)』編集長として、あるいはやはりロザンヴァロンが立ち上げた知的交流グループ「理念の共和国(Le Republique des Idees)」事務局長としての方が有名かもしれません(ちなみにピケティも当初この立ち上げに関わっていました)。

 

こうみると知的にも経歴的にもロザンヴァロンを親玉とする学者のようにもみえますが、2002年にはロザンヴァロンを始めとする「理念の共和国」のグループが、アラン・マンクやピエール・ノラ、マルセル・ゴーシェ、フィンケルクロートといった知識人(批判する本を書いたリンデンベルグの言葉を借りれば「新反動主義者たち(Les Nouveaux Reactionnaires)」)を批判したことで、袂を分かつことになります。もちろんブヴェが「新反動主義者たち」にシンパシーを覚えていたから、というわけではなく、内輪もめに飽き飽きした、と本人は証言しています。

 

ブヴェのスタンスは、彼がずっと社会党の周辺にいたことからもわかるように(左派系のサンシモン財団、社会党シンクタンクのテラ・ノヴァ、今では老舗シンクタンクのジャン・ジョレス財団に所属)、社会党の流派の中では中道に位置しながらも(英流にいえばモダナイザー)、リベラル中間層というよりは、庶民・下層への知的ヘゲモニーを確立することを目的にしているところにそのオリジナリティがあります。すなわち、フランス社会党共産党をライバルにしていたこともあって、歴史的にリベラル中間層・インテリ・公務員をコアな支持基盤としていたわけですが、ブヴェはそうした支持構造を刷新しない限り、国民戦線(FN)の伸張は食い止められない、と判断します。労働者層の最大の支持政党は今ではFNであるという現状があり、そうした支持層を捉えるような政治的ヘゲモニーを展開しない限り、左派はジリ貧になる、というのが意見です。

 

これが具体的にどういう戦略になるかというと、これまでフランスのリベラル左派が触れようとしてこなかった、マイノリティやアイデンティティや治安といったFNが得意とする政策領域に社会党もきちんと正面から取り組み、そのオルターナティヴを提示するということになります。フランス社会党は、強い世俗主義をバックボーンにしていることもあって、アイデンティティ・ポリティクスや移民問題といった、庶民層の関心あるテーマについてはさほど熱心に取り組んできませんでした。それゆえ、そこをFNにつかれた、というのが見立てです。

 

これは彼がアメリカや欧州の他のリベラル勢力を研究してきたことにも影響していそうですが、何れにしてもFNもしくはFNのアジェンダセッティングに対して為す術がないかのようにみえている今の左派にとって、ブヴェのいう「人民/庶民の左派(Gauche Populaire)」は有力な方途のひとつであることは間違いないように思います。日本風にいえば、憲法論議や安全保障だけに特化して物事を論じてきたような左翼ではなく、あるいは自己決定権の追求を第一に置くリベラルでもなく、貧困や生き辛さについて語る言葉を持つ左翼をいかに作るか、という構想といってもいいかもしれません。

 

こうした彼の政治的立場や志向性を理解した上で論考を読むと一層理解が深まるのではないかと思います。