大統領選に向けて。

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 1月17日に、サルコジが正式に与党UMPから候補者として選出されました。日本国内での報道と異なって、そのネオ・リベラリズム色は薄くなっています。

在仏日本人向けフリーペーパーの「フランス雑波」に来る4-5月のフランス大統領選についての一文を寄せたので下記に転載します。

                  <古い酒を新しい革袋に?>

「フランス人は最も政治的な国民である」と150年前に書いたのはマルクスだった。時としてアナーキズムに近いほどの無秩序をみせるフランス政治は、これまで幾度も危ない橋を渡ってきた。2007年の大統領選を迎えてこの危機が高まることだけは確実である。

<代表制の危機とペシミズム>
 過去20年間に渡ってフランス政治の代表民主制は機能不全を蓄積してきたというのはコンセンサスとなった。代表制とは、市民と政府を綱領やイデオロギーによって仲介して市民の世界観を形成し、政治によって達成されるべきものの範囲を規定することを意味する。棄権率の上昇、党派性の衰退、政治家不信、投票時の変移性、直接的・間接的政治的抗議などはこの代表性が危機に陥っていることを示している。1970年代と90年代の平均比較では、大統領選挙で5.5%、下院選挙で13.4%もの棄権率上昇を経験した。代表民主制を支える装置である政党ミリタンは減少し、ただでさえ少ない労組の組織率は低下し、エリート官僚機構の神話は崩壊し、教育機関はもはや社会統合の装置ではなくなった。もっともこうした危機的状況は先進国で多かれ少なかれ共通しているものであり、70年代から「民主主義の統治能力の衰退」としてS.ハンチントンを始めとする政治学者が議論してきた。

フランス代表制の危機は国民の脱政治化=政治に対する期待値の衰退に起因しているのではない。市民は強い不安を抱えているものの、こうした状況が代表制によって回復できるとは考えていないゆえに、統治者と非統治者の間に強い断絶意識が生じる。フランス固有の問題はここにある。

<二つの民主主義>
この断絶を埋めるためにロワイヤルとサルコジの二候補は、それぞれの解決策を提示している。

ロワイヤルは「参加/討議民主主義」である。参加民主主義とは市民が政治過程に自主的に係りあうことで自己決定権を増大させていくことであり、討議民主主義は市民社会による問題の(再)発見を通じた自己統治の術である。これは、法治国家による制度的な代表制民主制に対して市民社会での非制度的、非形式的な意見形成のプロセスを対置させるものである。これは、やはり70年代にJ.ハーバーマスに代表される市民社会論が公共性の再興を唱えて出てきた議論である。フランス戦後政治史においては60−70年代の第一の新左翼(アソシエーショナル社会主義、例えばロカール)、80-90年代の第二の新左翼(アソシエーショナル自由主義、例えばコーン=ベンディット)に続く、第三の新左翼として位置づけることができる。

サルコジ新自由主義的な装いとは裏腹に「国民直接投票(plebicit)型民主主義」である。フランスの政治社会は極度に分裂しているために社会紛争を招きやすい一方で、個人主義が基調で協調行動を忌避するために当事者の問題解決能力に乏しい(イモビリズム)。こうして「改革ではなく革命」が生じやすくなる。こうした場合に、緊急時の指導者としてシステムの再均衡を行う「ヒロイック・リーダーシップ」が誕生する、というのが仏政治研究の白眉S.ホフマンの分析だった(例えばド・ゴール)。フランスは社会の自己統治能力の低さゆえ、強い指導者を求め、帝政以来のリーダーはしばしば国民の直接的委任を権威の源泉として、イモビリズムの打破を図ってきた。1793年から現在に至るまで国民投票は既に22回実施されている。

両者が提示する処方箋はともに万能のものではない。ロワイヤルが言及する「北欧型デモクラシー」は国家と社会が分離しているフランスには馴染みにくいし、プロセスそのものは問題の解決を担保するものではない。サルコジによる「過去との訣別」は一時的な危機打開策にはなっても体制刷新には至らないばかりか、その権威主義的姿勢は問題を悪化させるだろう。選挙予測においてはあらゆる調査会社よりも正確なE.トッドが喝破しているように、ともにポピュリスト的な政治的支持の調達を試みているのだとすれば、見事なカップルである。

サルトルがかつて言ったように実際は「右も左も空っぽの箱」ではないだろうか。20世紀は「革命」や「ファシズム」あるいは「資本主義との訣別」と、政治が夢想を振りまくことのできた時代だった。フランスが経験している民主主義に対する幻滅を徹底することによって、より確かな民主主義が到来するという逆説はこれからも続く。(了)

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