可哀相なジェームズ。

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↑このドレスはロベルト・カヴァリ。

忙しくとも、007シリーズとA・パチーノの映画は何故か欠かさず見ている。ということで、遅ればせながら前評判の高かった「カジノ・ロワイヤル」を見てきた。

D・クレイグは恐らく今までの中で最も良質な俳優であることは確かなれども、プレタイトルとティーザー・シークエンスの乗りは今までと違うし、マネー・ペニーは出てこないし、肉体派ボンドは洒脱な感じとは程遠いし、とお約束が余りない点では不満だった。何よりも、ジェームズ・ボンドといううらキャラそのものへの自己言及を始めてしまったことが今後のシリーズ展開にとってのマイナスになることが心配になった。
…と新作をみる度に例によって不満を爆発させていたら(コモ湖の療養所のシーンで着ていた)アルマーニのワンピースがこの上なく似合っていたエヴァ・グリーンに救われた。

それでも、この作品は何故ボンドがファロセントリストになっていったのかということがつまびらやかにされている、という点で欠かすことはできない。

そう、ぞっこん惚れた女性に裏切られて、その後新婚すぐに妻を殺されて(「女王陛下の007」)、昔のガールフレンドも自分のせいで殺されて(「トゥモロー・ネバーダイ」)。そこまでつらい経験をすればそれが女性不信にも陥ることでしょう。
そう、ボンドは彼のセンシティビティーゆえに男性支配主義者へと変身せざるを得なかったのだ。ル・シッフルの「あの」拷問は、ボンドが精神的に去勢されてゆくことの象徴になっているのだろう。

そういう意味で「人間ボンド」が描かれていることは間違いはない。しかしそれは「同情」の対象ではあっても、決して「憧れ」の対象とならない。「冷戦の遺物で時代遅れの男性支配主義者」と「母」たるMによって宣告された時点で(「ゴールデンアイ」)、ボンドは実質上すでに死んだのである。