Je t'aime moi non plus.


最近ぎゃお、ぎゃお、と煩いので、どんなものかとアクセスしてみた。
意に反して、中々の名作が映画コーナーに並んでいて、勢いで大好きなギャバン宇宙刑事でも胡椒でもないですぞ)の映画を通しでみてしまった。

「大いなる幻想(la grande illusion)」(1937年)。監督はヌーヴェルヴァーグの父といわれるルノワール。パリ陥落の5年前に造られたの映画だ。第一次世界大戦の独仏士官との間の「奇妙な戦争」ならぬ「奇妙な友情」を、民主化の中で失われていく貴族性を主題に描いたものだ。

第一次世界大戦は、当初誰もが長くても数ヶ月で終わるものと予想していた。そんな雰囲気がこの映画でも描かれている。牧歌的で紳士的だった戦争が、瞬く間に総動員体制と科学技術の発展によって数十万人の戦死者を出すようになる。
「病気は階級を超えて伝播するさ。戦争がなければそれぞれの階級がそれぞれの病気で死ぬだけさ」。

ところでNHK欧州総局長だった荻野弘巳氏(最近、実は昔からの知り合いだったということが判明したのだった)がこんなことを書いている。
「敗戦で世の中が自由に開放的になり、中学生でも保護者なしで映画を見に行ってもいい時代の私や仲間にとって、映画はフランス映画とノンーフランス映画しかないといいうほどフランス映画にほれ込んだ。アメリカ映画はアメリカの豊かな物質的生活が自分たちとは隔絶したもの、彼等の「今に至る病」=「力は正義なり」の価値観は敗戦の日本人、というより私にとって「真実」でありすぎた(略)フランス映画はどうだったか−全てにいてこれらとはアンチテーゼ。ドイツに占領され、戦場にもなったフランスの戦後の状況は日本と変わらなかったが、必死に生き、誠実でしかし楽観的な小市民の感情も我々に近かっ(略)フランス映画にはならず者、落ちこぼれの放蕩児がよく登場するが、彼等にはプチブル道徳はないが、熱い、暖かい心情−日本人のいわゆる義理人情があった。イデオロギーの押し付けもなかったので、洒落て、大人っぽく、心が通う気がした。何よりも彼等は洗練されていた」。

義理人情があって、洒落て、大人っぽく、何よりも洗練されている、というのは、ジャン・ギャバンのためにあるような形容詞だ。庶民の生活が、そしてその中でもドラマ性を演じさせれば右に出るものはいなかった。愚直で、弱くて、でも愛に溢れて人間的であろうと追求とする「意味のない人々(des gens sans importances)」(邦題『ヘッドライト』)の代名詞。

そういえばボクの書いたものを「お前の論文はフランス映画のようだ、好きだ嫌いだのと男女が延々やっていて結論のないところがそっくりだ」と言われたことがある。しかし意味のない人にとっては最大の誉め言葉なのである。