曽野綾子氏が問題提起したこと
論じ尽くされた感はありますが、先の産経新聞での曽野綾子氏のコラム「『適度な距離』保ち受け入れ」での南アフリカのアパルトヘイトに賛意を示すような言説はもちろん容認されるようなものではないでしょうし、それ以上に南アで融和に努めてきた関係者の努力を全く認めないような物言いは到底支持できるものでもありません。
http:// http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/10/sankei_n_6657606.html
批判が巻き起こってからの曽野氏へのインタビューと同氏の反論
ただ、一方で氏が問題提起したことが何だったのか、ということをきちんと受け止めた上で批判するような言説も求められていると思います。氏の言説をDisるだけでは、相手と変わる所がありません。
どういうことか。
とりわけ問題だとされた箇所は以下の文章でした。
「南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」
政治的に正しくないとされることをあえていうのが保守反動の特徴なので、アパルトヘイトを引き合いに出して居住区を分けるべきというのはある種のレトリックです。そうではなく、集団的な文化的アイデンティティ(ここにはエスニシティや肌の色やセクシュアリティなど多様なものを含むものとします)を核にして、互いの集団を区別しておいた方がいい、という思考様式こそが、曽野氏の主張の本丸だといえるのではないでしょうか。彼女の「差別ではなく区別」という、この種の主張にあり勝ちな説明も、この解釈を裏付けます。
問題は、実際にこうした文化的なアイデンティティが居住をめぐって問題を起こす可能性がある、という現実です。
曽野氏が念頭に置いている先進国での移民受け入れの事例を見た場合、実際に居住地区に新たな文化的アイデンティティを持った人々が住み始めて、両者の混在がトラブルになるということは実際に起きています。
例えば、フランスのパリ地方の典型的な「庭付き一戸建て」の分譲住宅地が集中する土地では、その土地に移り住んできた中産階級が高齢化を迎え、新たに移民層がその土地に増えていっていることで、政治的に保守的になっていくといった社会学の定点観測があります。
2012年のフランス大統領選では、都市部中心を起点として、極右FN(国民戦線)の得票地域に波があること、つまり都市部中心では得票率低、周辺部・郊外で高、田園地方では再び低という、居住地で綺麗な相関があることが発見されています。これも、移民を含む文化的ダイバーシティを脅威に感じる層と、実際に脅威に感じる層が、居住区で分かれていることから生じている投票行動だと分析されています。
フランス以外でも、2011年にロンドン郊外で起きた暴動は、所得やエスニシティがむしろ混在していた地区で多発したという指摘もありました。
繰り返しになりますが、だからといって曽野氏のいうように「居住区を分けて住むこと」が文化的な摩擦や軋轢を回避するためには望ましいとするような言説や主張が正しいといっているわけではありません。しかし、もし移民を含む異なる文化的アイデンティティを持つ人々を脅威に感じる人たちがいるとして、そしてそのような人々が曽野氏のような言説や主張を支持するとして、それでは、そのような意見にどのように反論すべきかについてまずはきちんと考えておかなければ、この種のものは(当然のことながら)「倫理的・道徳的に正しくない」「政治的に正しくない」から排除されるだけで、その思考や実感は是正などされることなく、結局イタチごっこになりかねません。
少なくとも移民を含む異なる文化的アイデンティティを持つ人々を脅威に思っている国民が多いと思われるからこそ、移民受け入れ政策や外国人の地方参政権をめぐる方針は、議論はされても、そのまま店晒しになってしまっているというのが現状です。
こう考えると、例えば斎藤環氏の曽野綾子が「キャラ」であることを許してしまうことが問題という指摘ももっともかもしれませんが、そのように彼女を嘲笑したからといって、事の本質が抱える問題は解決しません。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11617257.html
曽野氏を糾弾するだけでなく、反対者が持つ世界観を超えた上でなお、なぜ人々は「分けて」住まない方がいいのか、きちんと論理的に反論するのでなければ、曽野氏の主張や指摘は支持され続けることになるのではないか、そのことを危惧します。