「ポスト世俗化」論からみる宗教原理主義の逆説
時事通信が発行する電子媒体E-Worldに「宗教への深い理解が唯一の道─宗教原理主義はなぜはびこっているのか?」と題した論考を寄せました(会員制 時事通信社 Janet提供。そのうち朝日新聞のWEB新書内でも単独購入できるそうですhttp://astand.asahi.com/webshinsho/)。
もちろん、パリやデンマークでのテロ、あるいはイスラム国についての議論を念頭に置いた議論です。
論考で紹介しているのは2000年代後半くらいから、アメリカ、ヨーロッパの社会学者、哲学者を中心とした「ポスト世俗化」の議論です。中でも、ハーバーマスがラッツィンガー教皇庁教理省長官(後のベネディクト16世)との対話でこの言葉と概念を使ったことで、有名になりました。
公共圏に挑戦する宗教――ポスト世俗化時代における共棲のために
- 作者: ユルゲン・ハーバーマス,チャールズ・テイラー,ジュディス・バトラー,コーネル・ウェスト,クレイグ・カルフーン,エドゥアルド・メンディエッタ,ジョナサン・ファンアントヴェルペン,箱田徹,金城美幸
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2014/11/27
- メディア: 単行本
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「ポスト世俗化」と言う言葉は、論者によってその意味内容に幅がありますが、なぜ科学技術と合理性によって世俗化が完成したかにみえる現代において、宗教的なものが再興しているのか、そうだとしたら世俗に軸足を置く市民社会は宗教世界とどう協働できるのか?という問題関心においては共有しているものと思います。
論考では、ウルリッヒ・ベックの「個人化されたがゆえの信仰」(『私だけの神』)を中心とした議論を軸にしています。
世俗化が進んで教会権力が解体され、信仰が個人のものとされればされるほど、宗教の意味解釈は個人に任され、意味供給源としての宗教の影響は増すと推定されます。それゆえに、世俗化と宗教原理主義はむしろ並行して進むことになるわけです(ベックは個人化された神であるゆえに宗教原理主義は抑制的になり得るという様にも言っています)。
そんなことを書いたら、インドネシアのイスラム教を取材した記者が同じような現象を指摘していました。
柴田直治「(ザ・コラム)インドネシア イスラム化する社会と多様性」
http://www.asahi.com/articles/DA3S11612816.html
ただ、問題はその先にあります。
テロとの闘いは、17日に日本の外務省が発表した「邦人殺害テロ事件を受けての今後の日本外交(3本柱)」にもあるように、
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press3_000074.html、軍事的対処に加えて、安定した社会の実現や格差是正、教育支援といった対策も必要とされます。
これはとりもなおさず、世俗化を進めることにもつながりますが、もし世俗化を進めて個人を解放することがむしろ宗教性を促進することにもなるのだとすれば、宗教的なものを追放するでテロを根絶するという発想を変えなければなりません。それができないと、宗教過激主義は少なくとも残存する可能性があります。
もしその道も塞がれるのだとしたら、テロとの闘いは軍事的・治安上の対処しか手立てとして残されていないということになりはしまいか――かなり暫定的な結論ですが、「ポスト世俗化」の議論はここにきて、やや悲観的な観方を指し示しているようにも見えます。