シャルリ・エブドの襲撃事件について。

1月に起きたパリの「シャルリ・エブド」編集部襲撃と一連のテロ事件について、詳しくはシノドスに書きました。

移民、宗教、風刺――フランス・テロ事件を構成するもの / 吉田徹 / ヨーロッパ比較政治 | SYNODOS -シノドス-

風刺、移民、宗教の何れもが縁遠い日本ですから、事件の文脈を理解するのは難しい所がありますので、そのためのヒントの幾つかを羅列しました。

シノドスには、これからも「宗教と政治」という論点のものを数点、マイケル・ウォルツァーといった海外の論客の論考の翻訳という形で掲載されていくと思います。

私のものは、imidasや時事通信Janet等で、やはり多角的にこの論点を深めていく予定です。

 

さて、昨日10日付けの北海道新聞には、「<探る見る さっぽろプラス>フランス週刊紙襲撃1カ月*風刺画 庶民の抵抗精神*表現の自由どこまで*厳しい時代、圧力に屈せず」という特集が組まれ、「風刺画とは何か」という観点からの記事がありました。そこでコメントを寄せているので、その部分のみ、転載します。

 

ムハンマドの風刺画を掲載したシャルリエブド紙への襲撃事件に対し、表現の自由を守ろうと大規模なデモが起きた理由には、フランスの歴史的な背景がある。フランスの事情に詳しい北大公共政策大学院の吉田徹・准教授(政治学)に聞いた。

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 フランスにおける表現の自由は、18世紀末のフランス革命を機に制定された「人権宣言」で規定され、最も尊重されるべき大原則だ。ただし例外があり、特定の人種や国籍、宗教、性別など個人の属性に対して差別したり、憎悪を助長したりする表現も判例などを通じて禁止されるようになった。いわゆるヘイトスピーチ(憎悪表現)もこの例外にくくられる。
 シャルリエブドの風刺画はイスラム教徒が対象ではなく、預言者ムハンマドと、硬直した教条主義を「嘲笑」するもの。信者への憎悪を助長するものではない。
 嘲笑はフランスの政治文化では伝統であり、宗教や文化を含め、日常生活にみられるタブーや権力を目に見えるようにして、これと戦う手段でもある。歴史的に宗教が権力を持たなかった日本と、民衆がカトリック教会の権力から身を守る必要があった欧州とは、宗教への感性が違う。
 表現の自由の原理で重要なのは、何が表現の自由の枠内で、何が自由に値しないのかといった判断をあらかじめ下さないことにある。というのも、自由の範囲を議論し始めると時の権力の恣意(しい)的な介入を招き、結果として表現の自由が狭められる危険があるからだ。」

 

それにしてもサザンの騒動もそうですが、こうした出来事を目にするたび、やはりシャルリの事件は日本では遠いままなのだろうな、と思ったりします。

(表現のまわりで)サザン騒動、生んだ空気 作り手の立場、あいまいさ許さず:朝日新聞デジタル