坊主憎ければ…

てえへんだてへんだ、おいらの年金が消えたど!
…ということで、年金問題が再燃した。

日本社会で常に組織的に問題を引き起こすのは革新の源である「周辺」ではなく、いつも「中央の周辺」なのはなぜなのだろうか。

そうであっても、今回の出来事の中で、年金番号をデジタル化するにあたって作業した職員への批判がセットのようになって報道されるのは解せない。

例えば日経新聞の社説も年金記録漏れを「歴代の厚労相社保庁長官だけでなく、かって業務のコンピューター化に消極的だった労働組合にも責任の一端がある」とのたまう。当時、労組側は一回の作業を1時間に限定し、その間には15分を最大に休息をキーパンチ担当者にとらせるよう妥協を引き出したという。

しかし坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とはこのことではないか。
記録洩れが問題であるならば、キーパンチ作業を「丁寧」にやるのが
理にかなっているのであり、仮想としては長時間労働をやった方がミス入力が多くなると考えるのが妥当なはずだからだ。そんな思考実験もできない日経社説は所詮労組=障害としてしか考えない単細胞たちの提灯記事でしかなくなってしまう。

前々から思っているのだけれども、日本社会ほど既得権益の恩恵に預かりそれが好きなくせに、既得権益を攻撃するのが好きな所はないように思う。
いや、部分社会の既得権益こそが現下の格差社会を生み出し、剥奪感
を与えているのだ、というほどの社会分析とヴィジョンがあるわけでも
ない。なーんとなく「楽そう」にみえる部分社会に対する憎しみだけが
先行しているのではないか。「無責任なフリーターたち」が実は「食っていけないフリーターたち」であると認識が変わった途端に「ネットカフェ難民」現象ビジネスが花咲いたのも、ベクトルは逆なれど、同じ根性に基づいているように思える。

欧州大陸で「アキacquis」といえば、それは長年戦いの上培ってきた
「不可逆的な権利」のことを指す。「アキコミュノテール」然り、「労働者のアキ」然り。それが社会が進歩すること、というのは多くの場でコンセンサスになっている。日本の戦後憲法の重要な「アキ」はそうした社会的進歩への志向でもあったはずだ。
結局のところ、日本社会は、守りたいと願えるだけの「アキ」を何一つ獲得できなかったから、改憲論議も結局「遠い話」になってしまっているのだろう。そんな憲法ならばさっさと変えてしまえ、もっといえば憲法なんぞこの国にはいらないじゃないか、と言い放ちたくもなるのである。