猫を生かすも殺すも。

pepe

↑我が家の王子サマ。君の人生はボクのもの。

地獄への道は善意で敷き詰められている、とは良く言ったものだ。
作家の坂東眞砂子の日経でのエッセイが波紋を呼んでいるのだそうだ。
日本という国では「戦後民主主義」のヒューマニズムとカマトト文化が奇妙な混合物となってグロテスクな反動を呼び起こす。

内容は割愛するとして、「愛猫家として知られるジャーナリストの江川紹子さん」にとっては「猫が生まれないように避妊手術をすることと子猫の命を奪うことを同列に論じている板東さんの論理はおかしい。何が猫にとっての幸せかは猫でなければ分からない。突然殺されることに子猫は悲しんでいるはず」なのだそうだ。ジャーナリストとは想像力が豊かな人種のことをいう。

ボクはちなみに、銀座のあるワインバーに置いてある「吉田豚」を共食いしに行きたくなることがある。そのとんでもなくジューシーで旨みが凝縮した豚肉を口にする時「時に吉田くん、ボクに食べられて幸せかね」と尋ねてみることにしている。何が豚にとって幸せかは豚にきいてみなければ分らないからだ。
もちろん、突然口に入れられることを豚たちは悲しんでいるのかもしれない。

坂東眞砂子のエッセーの締めくくりはこうだ。
「もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」
どういう論理をとっていようが、「痛み」と「悲しみ」を引き受けようとしない欺瞞をタヒチで作家は告発したかったのではないかとボクの想像力はいう。「欺瞞を告発する」という表現が陳腐だとしたら、「欺瞞を抱えざる得ないことの痛みと悲しみの叫び」といってもいいように思える。避妊だろうが殺しだろうが、その奥底にある「生」というものに対する感受性をこそ問いただしかったはずなのだ。私達は人間が人間を、人間でないかのように扱う時代において、その対象が猫であることに安堵すべきだろう。

ボクはもちろん吉田豚を食すことの喜びと幸せを引き受けて食べることにしている。