シアンスポの先生、

無事、シアンスポの講義も終わり、今日期末試験の採点表を事務に持って行って、今期の仕事も、これでめでたく終了となった。

もともと、シアンスポと関わりを持ったのは、1999年ごろのこと。

当時、企業派遣でパリに来ていた私は、毎日の大半をオフィスで過ごすのが勿体なく、街中をブラブラしていたのだが、直接のきっかけは思い出せないものの、なぜか「そうだシアンスポに行ってみよう」と思い立ったのだった。有名な政治家を沢山輩出した機関というものがどういうものなのか、見てみたかったというのが動機だったように思う。

とはいえ、単に建物を覗くだけではつまらないけれども、かといって試験を受けて入学するほどの時間と才能もなく、中々に取っ掛かりがない。そこで、大学時代の友人がシアンスポにかつて留学していたのを思い出し、誰か先生を紹介してくれるよう頼むことになった。そこで、紹介されたのが、デュブロイユ(Richard Dubreuil)先生だった。

19世紀末の歴史が専門で、日本にも滞在したこともあるという先生は、サンタクロースのような風貌で、穴の開いた手袋をしていた。シアンスポの有名な「ニッシュ=ベンチ)」がある講堂で待ち合わせをし、実はこれこれの理由でシアンスポの講義を聴講したいのだけれど、とおずおずと切り出すと、「もちろん!」と満面の笑みを浮かばれ、早速に事務室に連れて行かれて、聴講生との手続きを済ませてくれたのだった。その時、何よりも印象に残ったのは、シアンスポの事務員誰もが彼のことを
知っているのではないかと思うほど、みんなが彼と親しく会話をし、案内してくれた図書館では学生が駆け寄ってきて進学相談をする、という先生の何よりも暖かな人柄が伺えたことだった。

見ず知らずの日本人の学生である私を連れて、シアンスポ構内のあちこちを案内してくれ、後日にはパリから数十キロ離れたシャルトルの大きな自宅にも招いていただいた。こちらが一生懸命フランス語で話していると「ほら、彼のフランス語は上手だろ」とご家族に話されていた。こちらがすっとんきょうな質問をすると、二階にあるこれまた大きな書斎から辞書をひっぱり出してきて、「それはね」と丁寧に解説してくださった。帰り際、駅まで送ってもらう際、シャルトルの街も案内してもらい、「いいかい、ああいう特徴を持った家は17世紀の建築ということで」と、それは楽しそうに説明してもらったことも覚えている。その後、先生はシャルトル市の助役にも選出されたとのことで、大聖堂で有名なこの街をこよなく愛されていた様子だった。

その後修士課程に進学し、パリを訪れた際に先生と再会する機会もあった。「フランスとヨーロッパ統合の関係の研究をしたい」というと、「それは面白い」と言われて、ご自身が敬虔なカトリックであることもあって、日本では余り知られていないカトリック教会の欧州統合に対する態度などのことなどを、食事の場で詳しく講義してくれたことも覚えている。いわゆる「主権主義(souverainisme)」や伝統右翼の本を専門に出版している小さな出版社を教えてくれたのも先生で、ここで購入した本はその後の研究の大きな参考にもなった。サンジェルマン大通りでの別れ際、「いいかい、このテーマでは沢山本を読まなければならないぞ」と念を押されたのも印象深く覚えている。

早速に翌日、この出版社兼本屋に行った際、おそらく怪訝に思ったのだろう、店主が「どこでうちのことを知ったんだ?」と尋ねたので、デュブロイユ先生の名を出したら、「そういうことか」と、沢山の本をおまけしてもらった。もしかしたら、先生の「裏庭」を少しだけ、見せてくれたのかもしれない、と今では思っている。

よく研究と教育は違う、といわれる。しかし、基本的には同じことではないだろうか、と私は思う。
つまり、解るのか解らないのかすらも不確かな「他者」に対して、誠心誠意、伝わるであろうという前提を持って、丁寧にコミュニケートすること。
これは論文を書こうが、講義で学生に向けて話そうが、同じ原則に基づいているはずだからだ。その地平では、研究も教育も、人の営みとしては同じであるはずだ。

そんなことを、先生との短い、数少ない付き合いの中で学んだ。

かつての不良日本人がシアンスポに戻ってきた、と聞いて喜んでくれたであろう先生は、すでにもういない。
そればかりか、先生のようなスタイルを持った学者はシアンスポではすでにもう多くない。
そして、シアンスポの講堂を歩きながら、ふと先生の後ろ姿を探している自分に気付くのだ。