再会。

彼と会ったのは、93年ごろ、まだボクが大学1年生だった頃だ。
彼と出会った場所は、ケニヤ北東部のカクマにある難民キャンプだ。
彼はウガンダからの難民で、詳しいことは話さなかったが、当時の与党に抗議運動をした廉で難民になったという。

カクマ・キャンプに滞在したのは1ヶ月ほどだったが、その後どういう経緯だったのか忘れてしまったが、今日の今日まで、時たま、それも3ヶ月くらいの頻度でメールでお互いに挨拶を続けてきた。多分、最初は手紙から始まって、その後メールに移行したのではないかと思う。キャンプから出た彼は、結婚して3人の子供を設け、カンパラでお店を始めたり、それが焼失してしまったので、香港で肉体労働をしたり、流転の人生を歩んできた。添付ファイルの写真でみた子供がとてもかわいくて、絵が好きだ、というので、絵の具セットを日本から送ったら、「届かない」というので郵便局に確認しに行ったら、そんな国は追跡できない、といわれたりした記憶がある。

そんな彼が、今、フランスにいるという。もちろん、不法滞在である。

最初スペインに、そしてその後オランダに、色々コネクションを駆使して最終的にフランスに落ち着いた。リモージュという、日本では陶器で有名な街で手助けが得られる、と聴いてリモージュの駅にやってきて、三日三晩ホームで寝泊りして、今ではNPOと市が連携して運営している施設に住んでいる。確かにリモージュのある地方は豊かな地域なのだ。拷問で受けた左腕の怪我も、手術を受けたという。

そんな情報を昨年聞いて、フランスで一番最初に会いに行くのは彼だと心に決め、週末500キロをドライブしてリモージュまでいくことにした。

客人のため、彼は毎週末通っている教会ミサを休んで、とっても美味しい手料理を、それもスパークリングワインとデザート着きで、その6畳程度の、使えない家電製品で一杯になった部屋でもてなしてくれた。それも入れ替わり彼の部屋を訪ねる各国からの不法滞在者たちの歓迎を受けて。
せいぜい彼にお返しできるのは、家族との長い国際電話のために携帯を貸してあげること、リモージュに一軒しかないシュールな寿司屋(フォワグラにジャムが塗られたカリフォニア・ロールなんてものも)でご馳走することくらいだった。

元々絵を書くのが好きな彼は今、ほそぼそと作品を作成し続け、地元で展覧会を開くまでになった。
彼が誇らしげに見せてくれたポートフォリオには、様々なスタイルのものがあり、お世辞にも上手いとはいえないものもあったが、中でも抽象画はとてもいいものがあった。「どのスタイルが好きなんだ」と聴いたら、「個人的には抽象画」との返事が帰ってきた。

時はちょうど、サルコジ政権が移民と犯罪を結びつけて、ロマ人を退去させる政策をとったことで持ちきりの頃である(欧州議会は正式にフランスのこの施策の非難決議を採択した)。「日本から友人がやってくるから」と、彼からせがまれて、仕方なく手書きリモージュガイドを持ってきた市の社会担当職員も、「ロマ人を追い返すのに渡す予算(1人300ユーロ)をその分不法滞在している人間の能力開発に使えればどれだけ効果的か」という。社会が彼らの存在を「不法」なものにしてしまうのだ。

彼は、それでも「フランスが一番好きだね」といった。
ボクは子供の頃、アフリカから、東欧から、中東からの移民の子供たちと遊んだ。
このフランスのあり方を変えるのは、断固として反対する。反対だ、というだけの権利を外国人も持っているところが、この過ぎ去りつつあるフランスでもあるから。

長い空白があるし、背景の違いもあるから、彼の本当の人となりは判らない(子供の教育に熱心で料理が上手いというは確かでも)。

それでも、17年前に当時は特段フランスに縁のなかった二人が、こうして再会した。

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