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遅ればせながらの雑感。

遅ればせながら、例の田母神論文について考えてみた。
全文はこちらへ→http://www.apa.co.jp/book_report/
←アパ温泉巡りが副賞だったんですね。

田母神「論文」で歴史家が問題視しているのは大まかに言って2つあるのだろう。1つは、廬溝橋事件が中国共産党による自作自演だったという点、もう1つは米ルーズヴェルト大統領周辺にコミンテルン・スパイが存在し、これが日本の攻撃を仕組んだという点である。

歴史とは複雑怪奇なものである。ある結果が生じた場合に、ではその原因が何であるか、という因果関係を測定するためには、事象についての膨大な知識だけでなく、正確な判断力と見識が求められるはずだ。

国家や人物が単一の要因でもって特定の政策を採ったり、政策を下したりすることはない。それが他国を攻撃するといったような、国の死活問題に関わる重要な判断を下す場合であるならばなおさらである。イデオロギーや利益だけでなく、双方が絡みあって政策判断は行われる。そればかりか、その政策が実効性を持ち、政策の目的が達せられるかどうかは、その時々の環境的要因による。

そのような現実が過去にあったとして、ではどのような状況判断のもとに、どのような判断が下され、どのような結果が生じたのかを現在で推し量るのは簡単な作業ではない。「クレオパトラの鼻があと三センチ低かったら」という表現があるが、Aという要因がBという要因を生じさせるという因果は必ずしも明確ではない。

1933年3月、ヒトラー率いるナチ党が政権についたことが第二次世界大戦のきっかけとなったのは事実だが、それには「偶然」が必要だった。まず、多大な賠償と大恐慌の中で当時の政権のデフレ路線が政治不満を高めていた。さらに首相と大統領との確執が権力の真空状態を招き、その間隙を縫ってヒトラーとナチが大統領選と総選挙で躍進した。これにオーストリア人だったヒトラーが直前にドイツ国籍を取得していた、という人的要因も付け加えられよう。

1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。もちろんこれは1987年から始まったゴルバチョフペレストロイカの結果だが、物理的にベルリンの壁が崩壊したのは偶然だった。記者会見で、政府スポークスマンのシャボフスキーは東独市民の西独訪問に際して査証が直ちに発行されると、新旅行法が施行されていないのを知らずに、テレビで宣言してしまったのである。結果、五万人の東独市民が国境に押しかけ、彼らは「我々は一つの国民だ」と叫ぶようになった。

歴史とは特定の構造と、構造の中でうごめきつつも最善の判断を行いたいという人々の欲望の織り目から生成する「出会いの場」(入江昭)である。そのような混沌かつ豊穣な過去を目の前にした時、私たちは「自虐史観」という反動思想だけでなく、「戦後民主主義」という美辞麗句もまた、ともに歴史の上に胡坐をかく歴史認識であるという視座を得る。「自虐史観」批判は敗戦国となったことの利得を無視し、「戦後民主主義」はこれを支えた高度成長の陰で多くの公害や社会問題を垂れ流しにしてきたことを不問に付す。歴史を知り歴史に寄り添うこと―それは政治的に利用される「歴史認識」とも無縁なままに、歴史に対する想像力を養い、その上で自分とその国が世界で置かれている立場を客観視することである。EHカーが「歴史との対話」と呼んだのはそうした態度ではなかったのか。この想像力と客観視の絶え間ない相互往復は、自らを謙虚にし、他国や他者への感受性を養い、無意味な闘争に終止符を打つことになるのではないか。

「論文」は論の体を為していない代物である。しかし、それは歴史的な事実性や政治的正しさにおいてではないだろう。それは、歴史に対する態度そのものから間違っているからなのだろう。

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