札幌「シアター・キノ」で『復讐者たち』(7月31日公開)の解説トークを行いました。

市民が支え来年30周年を迎える札幌「シアター・キノ」。単館系・インディペンデント系を含め、良質な作品を札幌市民に届けています。

これまで何回かアフタートーク(最初は2006年だった記憶も)を依頼されてきましたが、今回『復讐者たち』(原題"Plan A"ドロン・パズ&ヨアヴ・パズ監督)の解説トークを頼まれたので、以下にその内容を記します(やや批判的なことも言っています)。

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100分ちょっとの映画ですが、古典的な二重スパイ的なプロットを活用しながら、最後まで展開を読まさせない、とても濃厚で展開の早い作品だったと思います。

さて、余り映画の余韻を邪魔してもいけないので短く、ヨーロッパ政治の研究者として、この映画の背景や意味する所を簡単に、3つほど説明できればと思います。支配人の中島洋さんからは20分は喋ろ、と言われてるのですが、それよりは少し短めにしたいと思います。

実はストーリー以上に、この映画は色々な面からみて興味深い作品だと思います。

映画は戦後直後(ロッセリーニ風にいえば「ドイツ零年」)の、ドイツ人への復讐を計画していたことを描いています。強制収容所を中心に――私もアウシュビッツオシフィエンチム)に行ったことがありますが――、600万以上ものユダヤ人が殺されたことはよく知られていますが、ユダヤ人が、この時代に主体的にそういうことを企てていたということはそれほど知られている事実ではありません。水道管に毒を流してドイツ人を殺すという計画があったことは史実で、この映画では描かれていませんが、やはりナカムのメンバーたちが、ドイツ兵の収容所のパンに毒を仕込んで2000人ほどがヒ素中毒にかかったということも記録されてます(実際の死者数は記録なし)。戦後の混乱の中で、ユダヤ人がドイツ人に復讐するという光景は珍しくありませんでした。

キース・ロウ『蛮行のヨーロッパ』という、この時代のヨーロッパを記録した本から、ドイツ人に復讐したユダヤ人の証言を引用します。

「私たち皆が参加した。甘美だったよ。唯一私が残念に思うのは、もっとやらなかったということだけだ。何だってやった。奴らを列車から振り落とした(略)私は楽しんだよ。当時、私たちのうちの誰であれ、味わうことのできた満足は他になかったんだ」(157頁)

映画でも主人公が「復讐をしたい、その資格があるはずだ」という場面が出てきますが、復讐したいというのが、一般的な感情だったことがわかります。

ただ、映画は、これまで単に一方的な被害者として描かれていたユダヤ人たちが、実際には加害者でもあった、ということを言っているわけではもちろんありません。色々と仲間内で行き違いはありながら、最終的にはドイツ人を、筆舌に尽くしがたい苦渋を味わったユダヤ人の側が赦す、という、戦争で生き残ったユダヤ人の道徳的優越性を描くものでもあるわけです。

子どもを殺されたら、あなたはどうしますか、という問いが最初と最後に出てきますね。「復讐」なのか「赦す」べきなのか、もちろん赦すべきだ、というメッセージが押し出されてます。以前、パリのテロで家族を殺された父親が、テロリストに「憎しみという贈り物を君たちにはあげない」という文章を発表して大きな反響を呼びましたが、この映画が発する倫理的なメッセージも同じでしょう。

ただ、これは高度に政治的な映画だということでもあります。戦後、少なくとも西ドイツは、法的にはともかく、道徳的にはホロコースト(ショア)が徹底的な歴史的反省の対象になったのは事実です。ナチ時代の反省こそが戦後ドイツの歴史を作ってきたといっていいくらいです。ドイツに行くとわかりますが、そこらかしこに反省と追悼のモニュメントで溢れています。

ただ、問題はそうすると、ユダヤ人は一方的な被害者として捉えられることになるわけです。法学に修復的司法論という分野がありますが、そこでは加害者と被害者が固定化されてしまうと、むしろ加害者だけが反省するという特権的な地位を得てしまうので、一方的な関係はよくない、という議論があります。反省するかしないか、赦してください、というかいわないか、というのはかつて自分に被害を与えた側の一存にかかっているからですね。それがない限り被害者は、救われないという意味で、加害者の方が相手に優位にい続けてしまうという皮肉です。あれですね、「ねえ、あなたあやまってよ」という奴ですが、あやまるかどうかは相手次第なので、余計腹が立つというのは、普段の日常生活でもある場面ではないでしょうか。

だから、ナチを描く映画では常に受動的な被害者として描かれてきたユダヤ人に焦点を当てた上で、復讐をすることはできたのだけれども、自分たちはそれを選択しないで相手を赦すという主体的な選択をしたんだ、ということを描くことで、被害者としてのユダヤ民族の尊厳を回復するという癒しの話でもあるんです。それがひとつです。

二つ目は、歴史をどう記憶するかという問題からの視点です。

実は、ショアについての記憶が世界で共有されるようになったのは、比較的最近のこと、1990年代初めくらいからのことです。その背景には、冷戦の終結があります。ここから、それまでは東西陣営のイデオロギー闘争で覆いつくされていた歴史の記憶が一気に噴出することになります。例えば、旧共産圏のポーランドでは、冷戦時代の西ドイツに対しての公式的記憶はファシズムと資本主義の権化として捉えていました。さらにアウシュヴィッツは、ユダヤ人を虐殺した場所ではなく、ポーランド人が殺された場所として追悼されてきました。ところが、冷戦が終わると、今度は冷戦中のソ連の行為が新たな記憶として浮上してきます。その代表的な歴史の記憶が「カティンの森」事件ですね。戦中にソ連兵がポーランド軍人2万人を虐殺したという歴史です。これはポーランド人のアンジェイ・ワイだという監督が映画化もしていますが、冷戦中はナチスの仕業とされていたのが、その後ロシアの情報公開で、実際にはソ連がやったことということが明るみになって、歴史問題になっていきました。こうした例は事欠きません。トルコのアルメニア人虐殺であるとか、スペインのフランコ体制の時の迫害であるとか、パンドラの箱を開けたかのように、世界各地で歴史認識論争が噴出します。日本も、中国や韓国との関係において、同じことを経験しています。

そうした中で、政治的にこうした歴史を利用しようという動きも出てきます。中国は南京大虐殺を記念する日を2014年に制定しましたし、ロシアではナチズムとソ連時代を同一視することを最近、法律で禁止しました。領土の変更があった東アジアと東ヨーロッパに集中していますが、こうした歴史認識論争は現実の国際政治を動かすようになって、記憶の「安全保障化」などということも言われたりするようになりました。つまり国際政治そのものが歴史的な記憶から動くようになっているのが、今の時代です。

実はこうした歴史認識に、映画も一躍かっていて、黒人奴隷を描いたスピルバーグの『アミスタッド』とか、フランスのインドシナ支配を描いた『インドシナ』といったその国の負の歴史を描く作品が90年代から2000年代にかけて多く公開されています。そうした観点から、今日の映画をちょっと批判的にもみておきたいと思います。

つまり、この映画は観ようよっては、イスラエル建国の歴史を正当化するものでもあるんですね。パレスチナの地に祖国を建国するために、むしろ我々はドイツを許さなければならない、というメッセージも何度か出てきます。

ただ、そういう風にイスラエル建国を正当化するということは、今のパレスチナの問題を相対化するということにもなります。監督はイスラエル人ですし、制作にもイスラエルのお金も入っています。一応、ドイツとの合作ということになっていますが、ドイツがメインだったら、ドイツ語の脚本になっていたはずです。敢えて英語の台詞にしたのは、世界に向けて何かと評判が悪くなってしまったイスラエルの正当性をアピールしたいという思惑がないとはいえないと思います。それは、映画を通じた歴史認識論争にイスラエルも参戦してきた、ということにもなります。

最後に、こういう風に純粋に映画を楽しめない時代に、どういう風に歴史とつきあっていったらいいか、ということをお話してお仕舞いにしたいと思います。 

ポール・リクールという、有名なフランスの哲学者がいます。今のフランスのマクロン大統領が学生時代に助手をやっていたことでも知られている人ですが、彼の書いた『記憶・歴史・忘却』という長い本があります。これは、記憶と歴史がどのように議論されてきたのかということについての決定版みたいな本なのですが、彼は人々が和解するためには、最終的に歴史を忘れないといけない、ということをいいます。歴史を忘れてはいけない、と普段習っている私たちからすると意外に聞こえるかもしれませんが、リクールは、むしろ主体的に忘れたふりをしろ、と呼び掛けるんですね。引用すると、「気遣う記憶力の地平にある気遣わない記憶力、それは忘れやすい記憶力、そして忘れられない記憶力に共通の魂である」と書いています。簡単にいうと、互いに傷つけあう歴史は、歴史に値しない、といっているわけです。

歴史は何のためにあるのか、それは自分たちの傷をなめたり、加害者を糾弾したり、ずっと被害意識を引きずるためにあるんじゃない、というのがリクールの主張です。そして、歴史や記憶は他人とよりよい未来を作るために用いられるべきだ、といいます。だから、歴史を振り返る作品を見る時、それは果たして、未来の人類の共生のために、どのようなメッセージを打ち出しているものなのか、ということを基準のひとつにしてみるのがいいんじゃないかな、と私は思っています。

ご清聴ありがとうございました。

 

「ソーシャル・ディスタンス」の歴史的由来。

 コロナ禍とともに、「ソーシャル・ディスタンス」という言葉が日常生活にすっかり定着するようになった。「社会的距離」とも訳されるが、なぜ感染を防ぐための物理的距離が「社会的」と呼ばれるのか、長年不思議に思ってきた。リモート・ワークにせよ、時差通勤にせよ、人々との距離を保つ行動は、むしろ社会が社会であるために条件である集団的な経験を奪い取ってしまうのではないか、と。

 

 その疑問は、シカゴ大学院生の論文を最近読んで氷解した。リリー・シェリルス「社会的距離の社会史」によると、この言葉はナポレオン時代のフランスで、皇帝の寵愛を失ったことを嘆く側近が最初に使ったことに起源を持つという。それが、現代的な意味で使われるようになったのは世界で数千万人の死者を出した1918年のスペイン風邪流行の時のことであり、2004年にSARSが流行った際に米CDCが報告書で使用したことで定着したという。

(原文はこちら)

cabinetmagazine.org

 

 同時に「社会的距離」という言葉は、特定人種を遠ざけるための言葉として20世紀前半のアメリカとイギリスで用いられていたらしい。これと関連して、この言葉は社会学調査にも流用されることになり、特定の人種集団が他の人種集団とどのように「距離」を取るのかを意味するものとして、学術用語としても用いられるようにもなったという(『ボガーダスの社会的距離スケール』)。こうした好ましからざる集団に対する距離という意味合いは、動物集団同士が互いに距離をとっていることの研究などを経由して、1990年代にエイズ患者の社会的疎外の文脈においても応用されることになったそうだ。

 

 事実、1910年代後半はスペイン風邪が世界で猛威を振るうと同時に、アメリカで人種問題がかつてないほど、激化した時代でもあった。第1次世界大戦後の動員解除と労働力不足から、南部から北部の工業地帯に黒人が移住するようになり、これに脅威を覚えた白人層が暴行を加える事件が続発、これに抗議する黒人たちが団結、80人近くが裁判にかけられたという。大統領だったウッドロー・ウィルソン大統領を含め、当時の政府やマスコミは、共産主義と暴動を結び付け、白人層の恐怖心を煽った。

 

 1919年に起きた黒人リンチと人種暴動は「赤い夏(レッド・サマー)」として記憶されているが、人種間の「社会的距離」をめぐる問題は、現在のコロナ感染拡大とともに広がり、60年代の公民権運動以上の参加者を得た「BLM(ブラック・ライブズ・マター)」運動とそのまま重なる。ある調査では、アメリカの白人と黒人関係が悪化しているとする国民は過去20年で最も高い割合を示している。1世紀以上が経っても、依然としてアメリカ社会は「社会的距離」をめぐって煩悶しているのだ。

 

 だから「社会的距離」の取り方は、社会の姿そのものを反映しているのかもしれない。その証拠にコロナ対策においても、アメリカやフランス、日本のように対人不信の高い国ではマスク着用が半強制的である一方、スウェーデンのような高度信頼社会では、死者数の多さにも係らず、街中でのマスク着用は義務化されていない。そうしたことが許されるのも、科学的根拠に基づく以上に、相手が自分を感染させないこと、自分は相手を感染させないことに対する信頼が成り立っているからではないか。

 

 そのような歴史と現状を知る時、やはり「社会的距離」は、社会を空中分解させてしまうものであるように思える。もちろん、距離をとる行為は、自分自身の心身の健康を守るためでもあろう。それでも、その行為そのものが他人への偏見や予断を助長してしまう可能性がないわけではない。「社会的距離」を嫌が応でも要求するコロナ禍は、社会における個人と個人との間の距離がいかにあるべきなのか、反省するための良い教訓となっている。

(『北海道自治研究』321号より改編して転載)

『アフター・リベラル』解題

9月16日に、講談社現代新書より『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』を上梓しました。

タイトルを見ただけでは、内容が分かりにくいかもしれません。

その触り(序章)は、こちらで読むことができます。

さらに、本のメッセージとそこに込めた意図はこちらで公開しています。

 

その上で、『アフター・リベラル』の内容がそれぞれどのようにつながっているのか、内容紹介とともに、説明をしてみたいと思います。

 

第1章「リベラル・デモクラシーの退却――戦後政治の変容」

この章では、戦後(西側)先進国の政治経済社会を規定していた、いわゆる「リベラル・デモクラシー」と呼ばれる政治体制の現在地を、ハンガリーやトルコに代表される「競争的権威主義体制」との比較で確認しています。ここでは、リベラル・デモクラシーが極めて歴史的偶然から生まれたものであることが強調されています。

 

第2章「権威主義政治はなぜ生まれたのか――リベラリズムの隘路」

この章では、リベラル・デモクラシーの揺らぎがなぜ生じているのか、とりわけ冷戦以降の保革対立軸の変容から説明しています。冷戦が終わってから、社民政党の経済リベラル化が進み、これに対する保守主義政党は政治リベラル化していったことが、没落する中間層、それらが支持するポピュリズム政治の台頭につながったことが指摘されています。

 

第3章「歴史はなぜ人びとを分断するのか――記憶と忘却」

この章では、より具体的な争点に話を絞り、日本のみならず世界各国を巻き込んでいる、いわゆる歴史認識問題を取り上げています。その上で、歴史が主観的(社会構成主義的)に想像されるようになったことで、その強度がますます高まっていること、さらにその処方箋として、カズオ・イシグロの作品を引きながら「歴史の忘却」もまた必要であることを説いています。

 

第4章「『ウーバー化』するテロリズム――移民問題ヘイトクライム

この章では、やはり争点としてテロとヘイトクライムを取り上げ、宗教系テロはイスラムを問題とするのではなく、現代社会で進んだ個人化(「ウーバー化」)を原因にしていること、さらにそうした「まなざし」によるテロ行為がヘイトクライムを呼び込むロジックを説明しています。処方箋としては、ウエルベックの小説を参照しながら、個人の自由を約束する宗教的なものの行方を占います。

 

第5章「アイデンティティ政治の機嫌とその隘路」

この章は、それまでの理論と現象を、歴史的に解題するものとなります。具体的には、第2章でみたリベラリズムの全面化と、第3章と第4章でみた争点の源流が1960-70年代にあることを確認して、その過程で生まれた「丸裸の個人」がネオ・リベラリズムとも癒着し、さらに「政治的引きこもり」と「アイデンティティ政治」の両極を生んで、それが社会の分断線と和解不可能性へとつながっていることを指摘しています。

 

終章「何がいけないのか?」

終章では、これまでに展開した各論が「政治リベラリズム」(第1章)「経済リベラリズム」(第2章)「個人主義リベラリズム」(第5章)「社会リベラリズム」(第2章)寛容リベラリズム」(第4章、第5章)というリベラリズムの思想的・歴史的潮流といかに接合しているのかを説明しています。その上で、均衡ある新たな時代のリベラリズムがいかに構想できるのかのヒントを提供しています。

 

「アフター」や「ポスト」といった言葉は、それが何であるのかは明瞭に認識できないものの、何か新しいものが生まれている、という感覚を表す接頭語です。『アフター・リベラル』も、これまでのリベラリズムの在り方を自己反省するとともに、それをアドルノ流に「うけなおす」必要性を主張するものです。

 

本では直接的には議論していませんが、日本では目下、上でいった「経済リベラリズム」と「寛容リベラリズム」が不均等までに先行している状況にあるように思います。これにその他のリベラリズムが追い付かなければ、これも現状にみられるように、バックラッシュと批判・反批判を招いて、社会に取返しのつかない分断・和解不可能性をもたらすことになるのではないか、と危惧しています。

 

そんなアジェンダについては、下記のイヴェントで議論したいと思っています。相手頂くのは、『リベラルの敵はリベラルにあり』が好評の弁護士の倉持麟太郎さんです。

 何れにしても「リベラリズム」という、それ自体が多用な思想的背景を持つ概念を正確に理解し、どのような偶然と必然によって生まれたのかを知らない限り、次世代の政治的対立軸がどのようなものになるのかを占うことはできません。ただそのことを知れば「アフター・リベラル」の後にも、やはり姿を変えた「リベラル」が来ることがわかると思います。その一助となる本になれば、と願っています。

【転載】リベラリズムの歴史的な綻び

  多くの先進国で、いわゆるポピュリズム政治が常態となりつつある。国よって差はあるが、右派ポピュリスト政党が新たに獲得している主な支持者は労働者層である。「ラストベルト」という言葉に象徴されたように、1970年代以降の製造業の衰退は、左派の金城湯池だった旧鉄鋼・炭鉱地域が、米トランプ支持へと流れる原因を作った。フランスの国民戦線(現在は国民連合へと改称)、スウェーデン民主党オーストリア自由党など、西欧極右の最大の支持者階層は、労働者層だ。イギリスの労働党、ドイツの社民党からの労働者層の離反とポピュリスト政党への支持増も綺麗に相関している。


 ドイツの思想家ベンヤミンは「ファシズム台頭の裏には必ず革命の失敗がある」と言ったが、つまりポピュリズム政治の成功は社民の凋落と表裏一体の関係にあるのだ。労働者層が左派政党に投票する割合を示す「アルフォード指数」は、1960年代以降、西欧では一貫して下落している。英エコノミスト誌の試算では1970年から2015年までの間、西欧社民は1980年代前半および90年代後半から2000年代前半にかけて得票を伸ばしたが、その後、2割以上も減らしている。周知のように、ここ数年の国政選挙では、オランダ、フランス、ドイツの社民政党は戦後最低の議席数へと衰萎した。労働者層と社民政党の紐帯は解け、ポピュリズムが結びなおそうとしている。

 では、欧米の労働者はなぜ右派ポピュリズムへと傾斜するのか。1950年代末、政治学者リプセットは、日本を含む各国の労働者層は経済的にリベラル(再配分と保護主義支持)である一方、社会的価値観においては権威主義的・非寛容であることを意識調査でもって証明し、これを「労働者層の権威主義」と名付けた。とりわけ単純労働者層は、十分な教育を受けておらず、不安定な地位に追いやられることから、「長いものに巻かれろ」と、権威に従う傾向を持つという。こうした観点に立てば、「反グローバリズム」と「文化的権威主義」を掲げるポピュリズム政治に労働者が靡くのは故なしのことではない。

 それでも戦後期に先進国の民主主義はなぜ安定と成熟をみせたのか。リプセットは経済的な平等を求める階級闘争が、結社の自由や基本的人権といったリベラルな価値と結びついていたからだという。そして戦前の反省に立った戦後の「階級均衡デモクラシー」(網谷龍介)は、こうした民主的価値を積極的に制度化していった。言い換えれば、社民政党労働組合が、放っておけば互いに反発するかもしれない労働者と民主的価値をつなぎとめる役割を果たしていたのだ。

 こうして20世紀後半、歴史上はじめて完成した労働者階級とリベラルな価値の邂逅は、後者が前者を守ることができなかった時点で崩壊する運命を迎えることになった。それは、冷戦が終わった90年代、欧米の社民勢力が政治的にリベラルな価値を守りながらも、経済リベラルであることを止め、国際競争と市場開放を選択したことの不幸な結果でもあった。ここにポピュリスト政党が漬け込む余地が生まれたのだ。

 日本でも、製造業や公的部門の雇用者数は、欧米と比べれば弱いペースではあるが、中期的には減少しつつある。ポピュリズム政治の伸張が投げかけているのは、産業構造や労働様式の大きな変容の中で、戦後民主主義の発展と安定をもたらした経済リベラルと政治リベラルの関係をいかに再構築できるのかという、歴史的な問いでもある。例えば、複数の意識調査が明らかにしているように、日本の若年層の政治意識はかつてと大きく異なり、より権威主義的、保守的になっている。この事実は日本政治も大きな地殻変動を被る可能性を示唆しているのかもしれない。

 不肖、この度北海道地方自治研究所の理事を拝命した。綻びをみせはじめた関係を新たに築く方途として何があり得るのか、微力ながらも知恵を絞りたい。

 

(『北海道自治研究』2018年6月号より転載)

フィリップ新内閣について。

先に時事通信の会員サイト「Janet」で「【対談】遠藤乾氏・吉田徹氏 マクロン外交は国際協調主義ーー大統領選で生じた亀裂を修復できるか」を掲載したところですが、5月17日のエドゥアール・フィリップ内閣の発足にあわせて追加インタビューがありました。フランスでは、大統領が当選した後に、議会選を待つ前に首相を任命、組閣が行われるのが通例となっています。以下に時事通信の許可を得て、当該部分のみを転載します。

マクロン⼤統領による初の組閣が⾏われた直後の5⽉18⽇、吉⽥⽒が改めて電話インタビューに応じ、新内閣の特徴などを語った。内容は以下の通り)


─フィリップ内閣の特徴は何でしょうか。

吉⽥⽒ 新閣僚では、担当⼤⾂も含めれば、⾸相以外で右派から2⼈、左派から4⼈、中道から3⼈、さらに政治家以外から⽂化⼤⾂や⾼等教育相、エコロジー相など8⼈が登⽤されました。これは、選挙戦中からマクロン⽒が公⾔していた、特定の党派や政党に依拠しない政治を⾏っていくという⽅針が⼈事においても貫徹されたといえるでしょう。

これは、満遍なく、さまざまな政治勢⼒からの閣僚を迎え⼊れなければならないということでもあります。政策領域に精通している⼤⾂を任命していることも特徴です。そうした点ではよく練られた適材適所の⼈事だと思います。内閣の⼈数はもっとも少ないと想定されていましが、実務型で機動性も⾼くみえます。さらに男⼥同数であることも特筆されます。


─6⽉の総選挙までの暫定内閣なのでしょうか。
吉⽥⽒ フィリップ内閣が続投できるかどうかは下院選の結果次第です。共和党が議会多数派となる可能性も低くはありませんが、その場合、同党出⾝でジュペ元⾸相の信頼も厚いフィリップ⾸相の内閣に不信任案を突き付けるのは難しいと考えられます。それ⾃体が共和党の分裂につながりかねません。もしマクロン⼤統領⾃⾝の「共和国前進」が多数派を形成できなかった場合も、その保険として共和党から⾸相を迎えたという⾯もあるでしょう。


ルメール⽒を経済相に充て、共和党に経済の責任を取ってもらうという形でしょうか。
吉⽥⽒ マクロン⼤統領の規制改⾰寄りの姿勢が⽰された形です。オランド⼤統領のもとバルス政権は、マクロン⽒⾃⾝が経済相時代、率先して法案を通した経済政策でもって、政権と党内が⼤きく分断されました。そう考えると、マクロン⼤統領の経済政策を実現するには、社会党よりも共和党の政治家に任せた⽅が適任です。さらに議会多数派の協⼒も得やすいという考慮もあってルメール⽒を経済相に任命したとみています。

 

─ルドリアン⽒が外交と欧州を担当することになりました。

吉⽥⽒ ルドリアン⽒はオランド⼤統領が⼤統領候補だった時代から、彼の国防政策のブレーンでした。そこは継続性を重視したということでしょう。また、社会党にあってかなり早くからマクロン⽒⽀持を表明していたので、その論功⾏賞的な意味合いもあるかと思います。そうした意味で外交政策はオランド時代のものと⼤きく逸脱することはないとみます。ただ象徴的なのはルドリアン⽒の管轄が「欧州および外務」となっていることです。欧州が先に来ているのはヨーロッパ重視姿勢の表れです。


─環境活動家のニコラ・ユロ⽒の環境相就任は。
吉⽥⽒ シラクサルコジ、オランドのいずれの⼤統領の下でも、その内閣⼊りがささやかれてきたユロ⽒ですが、マクロン⼤統領なら内閣に⼊ってもいいということなのかもしれません。⼤統領選では、マクロン⽒が環境政策をあまり訴えてこなかったことに緑の党は不満を持っており、彼⾃⾝、エコロジー問題に関⼼を⽰していないと⾒られていたこともあって、そのイメージ払拭(ふっしょく)を狙って環境活動家として知名度の⾼いユロ⽒を⺠間⼈枠の中で⼊閣を要請した可能性もあるでしょう。


─当⾯の課題は。
吉⽥⽒ マクロン⼤統領は下院選が終わっても、閣僚のバカンスを認めず、新たな労働法を政令でもって制定すると約束しています。労組は既に反発しており、秋⼝からストやデモが相次ぐ可能性もあります。ただ、マクロン⽒が労働者や労組の反対を押し切って強⾏突破するとは考えにくい。時間をかけて合意点を探っていくことになりますが、それが世論からどう評価されるか、現時点では未知数です。今のところ、国⺠戦線のマリーヌ・ルペン⽒も選挙を前に沈黙を守ったままです。どういう争点が総選挙で展開されるかも、その後の⼤統領の⽀持率にかかわってくるはずです。

(以上)