国際ワークショップ「ポスト政党政治時代のデモクラシー」のお知らせ。

基盤研究(A)「政権交代の比較研究と民主政治の可能性に関する考察」(代表 山口二郎)による国際会議を開催します。科研メンバー以外も参加可能ですので、奮ってご参加ください。

(2月2日追記:好評につき、会場のキャパシティもあって事前登録制となりました。ご注意ください。なお使用言語は原則英語となります)。


テーマ:「ポスト政党政治時代のデモクラシー」
ヨーロッパにおける民主政治の動揺、とりわけ左派の衰退の現状と、右派ポピュリズム台頭の中でデモクラシーをいかに擁護するかという問いを考えます。

日時:2017年3月10日、11日
場所:ホテル「ルポール麹町」(千代田区平河町2-4-3 ℡03-3265-5361)

3月10日(金)14:00~17:00(会場:エメラルド)
第1部「フランスにおける政権交代と左派の混迷」
講師 Chrisitne Pina氏(ニース大学)
   Georges Saunier氏(セルジ大学、ミッテラン研究所)

3月11日(土)11:00~14:00(会場:ルビー)
第2部「政権交代の経験と二大政党制の持続可能性--日英比較の観点から」
講師 Arthur Stockwin氏(オクスフォード大学)
    山口二郎(法政大学)

問い合わせ先:
一般社団法人生活経済政策研究所
専務理事・事務局長・上席研究員 大門正彦
E-mail:daimon + seikatsuken.or.jp (+はアットマークに置き換えてください)
tel 03-3253-3772 fax 03-3253-3779

「シン・ゴジラは泣いてはいないか」

話題の映画「シン・ゴジラ」。制作委員会方式ではなかったこともあり、通常の大作のようなメディア・ミックスでの宣伝がなかったにも係らず、この夏にすでに230万人以上を動員、興行収入も34億円以上と興収成績ではトップを走る。経済誌やネットメディアも相次いで特集を組むなど、「ポケモンGO」と並び、エンターテイメント業界による久しぶりの社会現象といえるだろう。この文章もそうなのだが、「シン・ゴジラ」をみると誰しもが何かを語りたくなるというのもヒットに貢献している(最近でも加藤典洋が割と長文をものしている)。

「虚構」で「現実」を投射する

 もっとも、ストーリーは深刻そのものだ。粗筋はといえば(ネタバレ注意!)、放射性物質を帯びたゴジラが羽田沖に海中爆発を起こし、首都圏に上陸して自衛隊の攻撃をかわすなか、内閣の官房副長官が編成した各省庁の混合チームが凝固財でこれの「凍結」に成功する、というものだ。こうして、それまで進んでいたアメリカ主導の国連が日本を国際管理下に置き、熱核爆弾を使って東京もろともゴジラを滅ぼすという計画が回避される。

放射能津波地震首相官邸自衛隊、危機管理――映画に散りばめられて起きる事件や登場する主体は、総監督を務めた庵野秀明がいうように、東日本大震災の寓意である。ゴジラというフィクションを通じて、圧倒的なリアリティを描き出したことがヒットの要因でもあるし、それゆえに「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」というキャッチフレーズが活きている。ゴジラという虚構を通じて、ニッポンという現実があぶり出されるのだ。

変わるゴジラの位置づけ

ゴジラとは何か」と問われれば、それは「時々の社会のリアルな歴史意識が投影されるシンボル」のことだといえるだろう。「シン・ゴジラ」が公開される前から3.11をゴジラ襲来に見立てていた作家の佐藤健志は、1954年のオリジナルの「ゴジラ」が、戦中の米軍による日本への空襲の寓話と言っていた(『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義文芸春秋1992年)。

オリジナル・ゴジラビキニ環礁でのアメリカ核実験で被爆した第五福竜丸事件をヒントとしたことはよく知られているが、そう考えると、「シン・ゴジラ」での位置づけはかなり変わったようにみえる。ゴジラは、日本を危機に晒す「外側の敵」ではなく、もはや恒常的に対峙していかなければならない「内側の敵」へと変化しているからだ。

「アメリカ・ゴジラ」はどう退治されたか

ところで、アメリカでもゴジラ映画は作られているが、核に対する意識はかなり異なっている。ハリウッド製の『GODZILLAゴジラ』(ギャレス・エドワーズ監督、2014年)は、日本の原子力発電所に長年眠っていた放射線をエネルギー源とする古代怪獣「ムートー」が覚醒、ハワイを襲撃した後、米西海岸に上陸するというストーリーになっている。そして、この「ムートー」を退治するのが、捕食生物で古代以来から戦ってきたゴジラという設定だ。日本の原発メルトダウンを起こして退避区域が設定されていたり、政府が原発事故を地震と偽装したりと、この作品も3.11に着想を得たものなのは間違いない。

もっとも、この映画で注目すべきは「ムートー」を排除するため、当然のように核兵器を利用しようとするアメリカ軍高官を、日本人科学者が説得して、ゴジラに退治を任せるべきだと主張することだ。核という「科学」ではなく、ゴジラという「自然」を用いて、もうひとつの自然の脅威である「ムートー」を制圧すべきだとするのである。こうして、核の脅威はアメリカ人自らの手でもって退けられることになる。

シン・ゴジラ」は、日本という国が怪獣退治に不能であることをみてとった国際社会が、核攻撃を画策、これを憂国の官僚たちが技術を駆使して阻止するという筋立てなのに対し、アメリカのゴジラはアメリカ人が日本人に説得されて核攻撃をあきらめるという筋立てなのだ。渡辺謙演じるこの日本人は、広島の被爆者二世という設定にもなっている。

国際社会での核をめぐる動向

2016年8月、国連の核軍縮作業部会は、核兵器禁止条約に向けての交渉に来年中に着手するよう勧告する報告書を採択したが、日本の代表団は投票に際して棄権したと報道された。報告書を作成の過程では、条約に反対の姿勢を示したともいわれている。日本政府は2015年にも、国連総会の委員会で、核兵器の非人道性や、自らが提出した廃絶のための決議には賛成しつつ、核を禁止する決議案そのものに対しては立て続けに棄権している。

確かに、日本は非核三原則を頂く国である一方、中国と北朝鮮という核保有国に囲まれている。しかも前者はCTBT(包括的核実験禁止条約)批准しておらず、後者はこれに加えてNPT(核不拡散条約)から脱退していて、何れも核兵器を規制する国際レジームに関与していない。従って日本は同盟国アメリカの核の傘に依存せざるを得ず、核兵器使用禁止に向けた動きは核抑止力を弱め、自国の安全保障を危機に晒すことになる。それゆえ、核使用禁止は現実的な選択肢ではないというのが政府の立場だ。2015年に合意された「日米軍事協力の指針(ガイドライン)」では、「米国は、引き続き、その核戦力を含むあらゆる種類の能力を通じ、日本に対して拡大抑止を提供する」と明記されている。日本の平和と外交はアメリカの核の傘を前提としているのである。

シン・ゴジラ」は時代遅れになるか

「唯一の被爆国」であるからこそ非核保有国であり、だからこそアメリカの「核の傘」に頼らざるを得ないという現実――こうしたねじれた現実があってこそ、シン・ゴジラの筋立てははじめて成り立つ。そうでなければ、日本がゴジラに自国の核兵器を用いるのは可能となっただろうし、アメリカが日本に核利用を迫るという設定もあり得なかっただろう。そう考えた時、「シン・ゴジラ」は、3.11という偶発的事件を上回る歴史的リアリティも内包していることになる。

しかし、アメリカ『GODZILLAゴジラ』との対比は、核の傘を前提とした日本のリアリティがすでに陳腐になりつつあることを示してはいないだろうか。なぜなら、「アメリカ・ゴジラ」は、核保有国のアメリカこそが、被爆の経験を持つ日本の歴史を追体験して、怪獣退治に核兵器を利用するのを断念するという、別様なリアリティを提示しているからだ。アメリカ・ゴジラは、日本版のように「核でも退治できない怪獣」ではなく、「核以外の手段で平和をもたらす怪獣」としての地位を与えられていたのだから。

平和をもたらすものとしてのゴジラは、単なる空想のものではない。5月に被爆地広島を訪問したオバマ大統領は「私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求すべき」と述べ、「科学的な変革」には「道徳的な変革」が伴わなければならないと謳いあげた。放棄されたものの、オバマ政権は核の専制不使用の宣言へも踏み込んで構想した(これにも日本は反対の立場を非公式に伝えたとされている)。「唯一の被爆国」に変わって最大の核保有国ならではのリアリティが現実を作ろうとしている。

時代を予感させるのは、シン・ゴジラではなく、アメリカ・ゴジラの方である。おそらく核廃絶に向けた最大の敵は「内側」にいる。その限りにおいて、シン・ゴジラはいまもなお正しいのだろう。しかしそのゴジラは泣いてはいないか。

 

(本エントリは「各自核論 ゴジラと核をめぐる日米」2016年9月17日付『北海道新聞』〔朝〕と題した寄稿文に加筆したものです)

「信頼でつながる社会」

 先に、北海道消費者協会の年次大会の基調講演を依頼され、そこで「信頼でつながる社会~小さな力を持ち寄って」というタイトルで90分ほどお話をさせていただきました。

 もともとは、札幌市西区で仲間とやっている「子ども食堂」についての報道を事務局の方がご覧になって、そうした観点から何か話を、ということでした。

 専門の政治学とどのように話をつなげようかと考えて、日本における再分配、働き方、社会における「信頼」の話と三大噺でつなげてみました。

 事務局の方が会報誌用にと要点をまとめてくれたので、以下に再掲します。

 

注目集める子ども食堂

私はこの4月から札幌市西区で「子ども食堂」を仲間と運営しています。この「子ども食堂」は食事を提供するだけではなく、子どもの居場所づくりや社交性のかん養、当事者意識の育みなど、「小さな社会」をつくっていくことが目的です。形態は様々ですが、「子ども食堂」は現在、全国に320カ所、この3年ほどに10倍以上に増えました。

ただ、「子ども食堂」が増えることは子どもを取り巻く環境が厳しさを増しているということでもあり、決して好ましいことではありません。

2012年の段階で、日本の子どもの貧困率は16・3%、実に6人に1人に登ります。先進国の平均は12%。日本は豊かだった1980年代から同じ程度の貧困率でした。つまり、貧困は景気の問題だけではないということになります。

 

再分配が機能しない日本

問題は、日本では当初所得を再分配すると(簡単にいえば税引き後)、逆に貧困率が高くなり、格差が広がるという逆転現象があり、再分配が機能していません。子どもに対しての再分配も同じで、格差が広がる現象があります。

なぜこうした歪な税制になっているかといえば、法人税所得税の引き下げが続き、それは消費税でまかなっていることがあげられます。税制の累進性が弱まっているのです。

また、日本型の社会保障は、正規雇用の男性の給与を通じて生活が保障されるというしくみですが、正規雇用の男性がリストラや賃下げで生活が揺らぐとセーフティーネットが提供されません。育児が家庭内だけで完結していたので、女性が働くとなると、出生率低下につながります。

さらなる再分配のためには増税も必要ですが、日本は痛税感が高い国。他の国と比べると官僚や国会議員への信頼度が低く、「税金は無駄遣いされる」という思いが強い。さらに「お上は信用ならない」という「垂直的不信」に加え、他人を信用できないという「水平的不信」も日本では実際には高いのです。

高度の不信社会で増税することは難しくなってしまいます。意識調査では「貧困対策は政府の義務ではない。貧しい人は自己責任」と考える人も多く、再配分を拡充することは難しく、貧困の連鎖は止まりません。

 

子どもの意識が日本を変える

政治や政府を盲目的に信頼する必要はありません。ただ、為政者に対する不信が高いのであれば、選挙以外でも政治に参加して、政治をただしていく必要があります。日本は他の先進国と比較して、政治参加の水準は低いまま。政治不信が高く、かつ政治参加も低調なのであれば、それは「共同体のことはその構成員のみなが納得して決める」という民主主義の原則が侵されていることになりかねません。

社会に対して信頼がないということは、社会のことを自分たちの手でより良い場にしていくという手段を自ら放棄しているようなものです。「子ども食堂」のような実践を通じて、子どもたちが小さな社会をつくり、当事者意識を育むこと。大人になって大きな社会をわがこととしてとらえられるように育っていけば、日本の社会は変えられると信じています。

 

 (了)

「英EU離脱とポピュリズム」(インタビュー記事)

(本エントリーは2016年7月9日付『公明新聞』「土曜特集」に掲載されたインタビュー記事を編集部の了解を得て転載したものです)

 【リード文】

英国の国民投票欧州連合(EU)離脱支持が多数を占め、国内外に混乱が生じている問題に対し、ポピュリズム大衆迎合主義)が背景にあるという指摘がある。北海道大学の吉田徹教授に聞いた。

 【国民投票 社会の分断露呈】

国民投票の結果をめぐって英国内の混乱は続いている。

吉田徹 今回の国民投票はもともと、英国の与党・保守党内で求心力を欠いていたキャメロン首相が、総選挙前に反EU派の台頭を抑え込むための公約をきっかけにしていた。国民投票実施という圧力を用いてEUから譲歩を引き出した上で、「残留」か「離脱」かを問う国民投票残留を勝ち取って保守党政権を安定軌道に乗せるという自作自演は、策略としては練られていたかもしれない。ただ、第65代英国首相を務めたハロルド・マクミランの「政治においては予期せぬ出来事、事件が一番怖い」という有名な言葉にあるように、難民やテロなどの予期せぬ事件を見誤ったため、国内の反EU、反グローバル勢力が炊きつけた〝あらぶる民意〟をなだめきれなかった。

 ―英保守党がそこまで追い詰められた背景は。

吉田 キャメロン首相が国民投票を決めた背景には、保守党が第三極の独立党などに支持層を切り崩される危機感があった。英国は長きにわたり、労働党と保守党の二大政党制が続いてきたが、70年代以降、少しずつ力を失っている。60年代、二大政党の得票率は90%だったが、2000年代に入って70%を切るようになり、最近は安定過半数を獲得できない状況になっている。二〇一〇年の総選挙では何れの政党も安定過半数を得られない「ハングパーラメント」を経験した。

いま英国社会は大きな地殻変動に見舞われている。出口調査では、大都市の周辺部や農村部、あるいは20世紀後半に造船業や鉄鋼業で栄華を誇った地域が大挙して離脱に投票したという結果が出ている。格差が大きく所得の低い地域や成長の恩恵に預かれていない地域、いわば〝グローバル化の敗者〟が離脱を支持した。

逆に、所得が高く、好景気の地域はEU残留を支持している。今回の国民投票によって今まで覆い尽くされていた英国内の分断線が露わになり、傷は思った以上に深いことが白日のもとに晒された。

  【グローバル化進む 雇用や貧困悪化】

―各国を見ても現状の政治に対する不満をあおる主張に支持が集まっている。

吉田 世界中で翻訳され、日本でも話題となったトマ・ピケティの『21世紀の資本』は、一九七〇年代以降になって、格差が拡大して19世紀型の資本主義に回帰しつつあると指摘した。戦前の反省と冷戦があって、二〇世紀後半は国家がグローバル資本主義を抑制的なものにしていた。この歴史的な偶然でリベラルデモクラシー体制が安定して、その下で分厚い中間層が生み出された。

しかし、冷戦が終わってグローバル化が進んだため、この分厚い中間層は逆にやせ細っていっている。これにリーマンショックと続く経済危機が追い討ちをかけた。欧州各国は緊縮財政を余儀なくされ、労働条件や生活環境が悪化し、没落に怯える中間層が政治的な急進主義を呼び込んでいる。

グローバル化と格差拡大を統御できない既成政党は右であれ、左であれ批判され、置き去りにされた民意の空白が生じる。そこをポピュリズム勢力が埋めているのが直近の状況だ。

 ―こうした現状に対し、既存政党は有効な打開策を打てていません。

吉田 多くの国の国政選挙では、既成政党が一致団結すればポピュリズム勢力や極右勢力を押さえ込める状況にある。ただ、裏を返せばこれは政党同士の健全な競争が成り立たず、既成政党は民意を無視して政治を進めているというポピュリズム政治家の言質を正当化してしまうジレンマに陥ることになる。このポピュリズムの挑戦に対して反駁できるだけの経済社会政策上の実績を残せるかに民主主義の将来はかかっている。 

現代は冷戦期のような明確な対立軸はなくなりつつある。だから各国を見ても選挙のたびごとに争点がめまぐるしく入れ替わり、国民は一体、何が問われているか分からない。その一方では、労働環境の悪化や貧困の進展など、目前の課題には改善の兆しがみえない。今の時代の代議制民主主義を時間軸で見ると、特定政権が政策課題に取り組むことのできる時間があまりに短い。腰をすえて課題解決を議論するための長期的な時間をいかに確保できるかが重要な局面になっているのではないか。

 【国家主家 過度な落胆と期待】

―政治家は選挙前になれば有権者に耳障りの良い政策を訴えがちです。

吉田 選挙で決められるものと決められないもの、決めてよいものと決めてはいけないものを分けて、有権者と政治家との間のコンセンサス作りを進めるべきだろう。

どのくらいの予算を投入すればどの程度の効果が出るかなど、政策のデザインをめぐる競争はあるべきだ。しかし、めざす国の方向性については各政党間でおおよそのコンセンサスがあることが、結果として長期的な政策課題の解決に寄与していく。

選挙前の公約でバラ色の政策を掲げ、結果として国民の期待を裏切る結果に終われば、残るのは政治不信だけだ。これがまさに、政治不信につけ込むポピュリズムを招く要因になりかねない。

 ―英国の国民投票では、「離脱」への投票を後悔する人も出ており、一時の感情に左右される民意はあてにならないという指摘もある。  

吉田 自分たちの共同体のことは自分たちで決めるというのが近代民主主義の原理原則。政党政治に馴染まない争点に限っては、国民投票も数ある意思決定の方法として認められるべきだろう。

しかし、国民投票だけに依存すれば、これで国際連盟からの脱退を決めたナチスドイツ時代のようなファシズムにもなりかねない。重要なのは、民意の表出の仕組みや回路、政治参加の在り方を重層的に確保していくこと。社会学者ダニエル・ベルは「現代の政府は個人の大きな問題を解決するには小さく、個人の小さな問題を解決するには大きくなりすぎた」と指摘した。このグローバル化と個人化の間で空洞化しつつある民主主義の隙間を埋めるための回路をこれまで以上に作っていかなければならない。

戦後の例外的な平等で豊かな社会は、二度の世界大戦の結果としてもたらされたということを忘れてはいけない。私たちに今問われているのは、戦争をしないままに、平等な社会をいかに自分たちの手でつくりなおすことができるかどうかだ。

 ―今回の国民投票から何を学べるか。

吉田 このまま英国がEUから離脱してもGDP(国内総生産)の約1割を金融で稼いでいる英国経済は変わらなければ、国連国際通貨基金IMF)から脱退したわけでもない。G7(主要7カ国)の一国としての責任もなくならない。グローバルな時代に国家主権は相対的なものとならざるを得ない。もっとも主権への過度の落胆と期待が交差して、「一国だけでは何もできない」という議論と、「主権を取り戻せば何でも可能だ」という両極端な議論に陥っている。

いまの政治に求められるのは、この現実と理想の隙間を埋めるための努力だ。ビスマルクの言葉を借りれば「政治は可能性の術」。いまの状況で何が可能でそうでないか、丁寧な議論を心がけなければならない。

日本の社会も大きく変わっている。人口減や貧困問題、エネルギーや環境問題など、世代と国境をまたがる問題が山積している。イギリスを揺るがした移民問題についても、これから減ることはない日本の外国人数をみても、いまから議論をしておくことが肝心だ。

 

 

民主主義とは「フィクション」である。

  「民主主義ってなんだ?」と問われれば、それはひとつの「フィクション(=擬制)」としかいいようがありません。「フィクション」といって難しければ、「~べきであることが想定されている」ということです。

 どういうことか、日本国憲法の前文を通じて確認してみましょう。

 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

  ここでいわれているのは、国の政治は、国民の権威に基づいた権力を代表者たちが用いて、その結果として生まれる福利は国民が享受すべきである、という循環です。

 これは、国民(=主権者)は自らの権利を代表者(政治家)に一時的に預け、自分たちの代わりに働いてもらうというのが民主主義、もっと正確にいえば、「代議制民主主義」や「代表制民主主義」と呼ばれる政治の基本形態でもあります。

 ここでは、共同体(=国)のことは、その構成員(=主権者)で決めて、結果的に決まったことは共同体の構成員の全員が従うことになることが想定されています。でも、それは実際には多分にフィクショナルな想定です。

欠陥だらけの代議制民主主義

 考えてみましょう。代議制民主主義のスタートは、有権者たちが自分たちの代表を選ぶところから始まるとします。そうでないと代議制民主主義はそもそも起動しません。そして、この代表を選ぶ機会こそ、選挙ということになります。

 ただ、この選挙で選ぶこと自体、容易ではありません。なぜなら、基本的に代表者は代表することを仕事としますから、選んでもらうことなしには、自分たちの義務が成し遂げられません。だから何としてでも当選したいと思う。そうすると、なるべく有権者に票を入れてもらえそうなことしか約束しません。もっといって、「国民の福利」実現のために働くわけですから、有権者がこういうことを実現してほしいと願うようなことを言うのが当然です(これが『選挙公約』、つまり選ばれたらこう働きます、という約束事の束になります)。

 ただ、結果として有権者が望んでいる、耳あたりのよいことしか言わないようになります。もっと問題なのは、どの政治家も真剣に選挙で票を投じてもらおうとすれば、いうことが似たり寄ったりになってくることです。国民の「福利」なるものはAKB48のメンバーほどの多様性には耐えられません。

 似たり寄ったりだと、では何を基準にしてそもそも選んだらよいかわからなくなります。各党や候補者の選挙公約を見てみましょう。「安心」とか「安全」とか、「強い」とか「元気な」とか、そこに並んでいるのはポジティブな形容詞ばかりです。あるいは、同じことを違うように表現した文言でしかありません。そこで政策で選べといわれても、選びようがありません。大勢と違う、ちょっと目を引くような公約を掲げている人たちもいるかもしれませんが、それはそもそも実現できそうにないことばかりです。つまり、「信託」しようにも、なぜ、どのように「信託」したらよいか判然としない。でも、それは国民の福利を実現するのが政治家の任務なので、致し方ありません。これが選挙から成り立つ現代の代議制民主主義の第一の欠陥です。

 第二の欠陥は、やっとこさのことで選んだこの代表者たちが、自分たちの思う通りに働いてくれないこともあるということです。その理由はいろいろです。代表者も人間ですから、心変わりすることもあるでしょうし、自分たちの信念も持っています。「喉元過ぎれば」ではありませんが、当選した時の約束を反故にして、後は自由にやらしてもらいます、という政治家もいるかもしれません(もっといえば、当選後の自由度は約束が曖昧であればあるほど、高まることになります)。あるいは、国会にはそもそも数百人単位で代表者たちが集い、その過半数がなければ法律にならないわけですから、そこで仲間作りに失敗して、自分が約束したことを実現できないということもあります。国政で用いられる「権力」がそもそも間違ったように使われてしまうかもしれない、あるいは、そもそも使われないかもしれない。これが代議制民主主義の第二の欠陥です。

 欠陥はまだあります。「福利は国民が享受する」と書いてあっても、生じるのは福利だけではなく、損害もあるでしょう。そもそも選挙の結果がどのような福利をもたらしたのか、それが本当に選挙の結果と直に関係するのか、確実なことはいえません。政策や法律が成り立つのには、国会だけでなく、官僚機構や業界や市民の協力や理解が必要です。しかも、参議院選挙のように、3年に一回の半数の定期選挙で、政権選択に直結しない選挙では、なおさらのこと、判然としません。選挙と、その結果もたらされる福利は必ずしも一致しないというのが、代議制民主主義の第三の欠陥です。

代議制民主主義の欠陥はもっとありますが、ここら辺りで止めておきます。

それでも「人類普遍の原理」である理由

 共同体のことをみなで決めて、その結果にはみなで従うという、代議制民主主義の想定は、実際には機能しないであろう、フィクションにしか過ぎないことは、少し考えればわかることです。みんなで決めるといっても、誰がどこで何を決めたのか、明らかではないからです。だから代議制民主主義は、今も昔も、どこの国でも、批判と幻滅の対象となってきました。

それにも係らず、先の日本国憲法前文には、続けてこう書かれています。

「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」

 ここでは、代議制民主主義はフィクションであるにも係らず、「人類普遍の原理」だと謳われています。実は、代議制民主主義は「フィクションなのに」ではなく、「フィクションだからこそ」、人類普遍の原理なのです。

 言葉遊びのようですが、英語の「フィクション(fiction)」は、もともとラテン語で「形作る(fictio)」という意味から派生してきた言葉です。ちなみに、「フィクション」の反対は「ファクト(fact)」、すなわち「事実」のことです。フィクションとファクトを分けるものは何でしょうか。それは「ファクト」がありのままのものであるのに対して、「フィクション」は、創り上げることができるものであるということです。

 代議制民主主義は欠陥だらけですが、それを修正するだけの余地を残すことを可能にしていることが、人類普遍の原理としての地位を与えられている理由かもしれません。

 選挙で、政治家や政党が選択しづらいとか、曖昧な文言しか並べないのであれば、それを問いただす権利を持っているのは、「権威」の源泉たる主権者です。選挙時の約束が果たされないとしてなぜそうなのか説明を求めたり、次の選挙で票を入れないということで罰することを可能にしています。選挙で自分の求めることが可能にならなかったのであれば、選挙以外の方法で政策実現のために運動することも可能です。

 代議制民主主義は「フィクション」であるがゆえに、様々なことを予め決めないでおくような、「遊び」の部分があります。もし代議制民主主義が「ファクト」であれば、そこに有権者が介在できる「遊び」は不要で、「事実」のみが重みを持つ世界であるということになります。そうではなく「フィクション」の世界は、積極性や創造性、もっといえば、この世を善くしていくという可能性を常に残し続けていくことになります。「愛」というフィクションと同じで、それはとても曖昧で不確かなものであるかもしれないけれども、それをいかに実現し、実体のものとしていくかは、人の行動力や創造力にかかっているのです。

 民主主義がフィクションである限り、それを理解したり、運用したりするのはいうほど簡単なことではありません。これまでみてきた具体例のように、代議制民主主義の持つ高度にフィクショナルな正確を「欠陥」とみなすか、「可能性」とみなすかも、人によって違うでしょう。しかし、「共同体のことはみんなで決めてみんなで従う」というフィクションから逃れるのは至難の業です。

 だから「ファクト」の重みに耐えかねて、この世をどうにかして変えていきたいという人のために民主主義は「フィクション」であり続けるのです。それが体得できた時、民主主義の欠陥は可能性へと変わることになり、引いては個々人の「福利」は増していくことになります。

(2016年6月13日)

 

 ※この文章は「ポリタス」に寄稿を予定していたものですが、これを別バージョンとして、元バージョンを本ブログで公開しました。