『アフター・リベラル』解題

9月16日に、講談社現代新書より『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』を上梓しました。

タイトルを見ただけでは、内容が分かりにくいかもしれません。

その触り(序章)は、こちらで読むことができます。

さらに、本のメッセージとそこに込めた意図はこちらで公開しています。

 

その上で、『アフター・リベラル』の内容がそれぞれどのようにつながっているのか、内容紹介とともに、説明をしてみたいと思います。

 

第1章「リベラル・デモクラシーの退却――戦後政治の変容」

この章では、戦後(西側)先進国の政治経済社会を規定していた、いわゆる「リベラル・デモクラシー」と呼ばれる政治体制の現在地を、ハンガリーやトルコに代表される「競争的権威主義体制」との比較で確認しています。ここでは、リベラル・デモクラシーが極めて歴史的偶然から生まれたものであることが強調されています。

 

第2章「権威主義政治はなぜ生まれたのか――リベラリズムの隘路」

この章では、リベラル・デモクラシーの揺らぎがなぜ生じているのか、とりわけ冷戦以降の保革対立軸の変容から説明しています。冷戦が終わってから、社民政党の経済リベラル化が進み、これに対する保守主義政党は政治リベラル化していったことが、没落する中間層、それらが支持するポピュリズム政治の台頭につながったことが指摘されています。

 

第3章「歴史はなぜ人びとを分断するのか――記憶と忘却」

この章では、より具体的な争点に話を絞り、日本のみならず世界各国を巻き込んでいる、いわゆる歴史認識問題を取り上げています。その上で、歴史が主観的(社会構成主義的)に想像されるようになったことで、その強度がますます高まっていること、さらにその処方箋として、カズオ・イシグロの作品を引きながら「歴史の忘却」もまた必要であることを説いています。

 

第4章「『ウーバー化』するテロリズム――移民問題ヘイトクライム

この章では、やはり争点としてテロとヘイトクライムを取り上げ、宗教系テロはイスラムを問題とするのではなく、現代社会で進んだ個人化(「ウーバー化」)を原因にしていること、さらにそうした「まなざし」によるテロ行為がヘイトクライムを呼び込むロジックを説明しています。処方箋としては、ウエルベックの小説を参照しながら、個人の自由を約束する宗教的なものの行方を占います。

 

第5章「アイデンティティ政治の機嫌とその隘路」

この章は、それまでの理論と現象を、歴史的に解題するものとなります。具体的には、第2章でみたリベラリズムの全面化と、第3章と第4章でみた争点の源流が1960-70年代にあることを確認して、その過程で生まれた「丸裸の個人」がネオ・リベラリズムとも癒着し、さらに「政治的引きこもり」と「アイデンティティ政治」の両極を生んで、それが社会の分断線と和解不可能性へとつながっていることを指摘しています。

 

終章「何がいけないのか?」

終章では、これまでに展開した各論が「政治リベラリズム」(第1章)「経済リベラリズム」(第2章)「個人主義リベラリズム」(第5章)「社会リベラリズム」(第2章)寛容リベラリズム」(第4章、第5章)というリベラリズムの思想的・歴史的潮流といかに接合しているのかを説明しています。その上で、均衡ある新たな時代のリベラリズムがいかに構想できるのかのヒントを提供しています。

 

「アフター」や「ポスト」といった言葉は、それが何であるのかは明瞭に認識できないものの、何か新しいものが生まれている、という感覚を表す接頭語です。『アフター・リベラル』も、これまでのリベラリズムの在り方を自己反省するとともに、それをアドルノ流に「うけなおす」必要性を主張するものです。

 

本では直接的には議論していませんが、日本では目下、上でいった「経済リベラリズム」と「寛容リベラリズム」が不均等までに先行している状況にあるように思います。これにその他のリベラリズムが追い付かなければ、これも現状にみられるように、バックラッシュと批判・反批判を招いて、社会に取返しのつかない分断・和解不可能性をもたらすことになるのではないか、と危惧しています。

 

そんなアジェンダについては、下記のイヴェントで議論したいと思っています。相手頂くのは、『リベラルの敵はリベラルにあり』が好評の弁護士の倉持麟太郎さんです。

 何れにしても「リベラリズム」という、それ自体が多用な思想的背景を持つ概念を正確に理解し、どのような偶然と必然によって生まれたのかを知らない限り、次世代の政治的対立軸がどのようなものになるのかを占うことはできません。ただそのことを知れば「アフター・リベラル」の後にも、やはり姿を変えた「リベラル」が来ることがわかると思います。その一助となる本になれば、と願っています。