「シン・ゴジラは泣いてはいないか」

話題の映画「シン・ゴジラ」。制作委員会方式ではなかったこともあり、通常の大作のようなメディア・ミックスでの宣伝がなかったにも係らず、この夏にすでに230万人以上を動員、興行収入も34億円以上と興収成績ではトップを走る。経済誌やネットメディアも相次いで特集を組むなど、「ポケモンGO」と並び、エンターテイメント業界による久しぶりの社会現象といえるだろう。この文章もそうなのだが、「シン・ゴジラ」をみると誰しもが何かを語りたくなるというのもヒットに貢献している(最近でも加藤典洋が割と長文をものしている)。

「虚構」で「現実」を投射する

 もっとも、ストーリーは深刻そのものだ。粗筋はといえば(ネタバレ注意!)、放射性物質を帯びたゴジラが羽田沖に海中爆発を起こし、首都圏に上陸して自衛隊の攻撃をかわすなか、内閣の官房副長官が編成した各省庁の混合チームが凝固財でこれの「凍結」に成功する、というものだ。こうして、それまで進んでいたアメリカ主導の国連が日本を国際管理下に置き、熱核爆弾を使って東京もろともゴジラを滅ぼすという計画が回避される。

放射能津波地震首相官邸自衛隊、危機管理――映画に散りばめられて起きる事件や登場する主体は、総監督を務めた庵野秀明がいうように、東日本大震災の寓意である。ゴジラというフィクションを通じて、圧倒的なリアリティを描き出したことがヒットの要因でもあるし、それゆえに「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」というキャッチフレーズが活きている。ゴジラという虚構を通じて、ニッポンという現実があぶり出されるのだ。

変わるゴジラの位置づけ

ゴジラとは何か」と問われれば、それは「時々の社会のリアルな歴史意識が投影されるシンボル」のことだといえるだろう。「シン・ゴジラ」が公開される前から3.11をゴジラ襲来に見立てていた作家の佐藤健志は、1954年のオリジナルの「ゴジラ」が、戦中の米軍による日本への空襲の寓話と言っていた(『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義文芸春秋1992年)。

オリジナル・ゴジラビキニ環礁でのアメリカ核実験で被爆した第五福竜丸事件をヒントとしたことはよく知られているが、そう考えると、「シン・ゴジラ」での位置づけはかなり変わったようにみえる。ゴジラは、日本を危機に晒す「外側の敵」ではなく、もはや恒常的に対峙していかなければならない「内側の敵」へと変化しているからだ。

「アメリカ・ゴジラ」はどう退治されたか

ところで、アメリカでもゴジラ映画は作られているが、核に対する意識はかなり異なっている。ハリウッド製の『GODZILLAゴジラ』(ギャレス・エドワーズ監督、2014年)は、日本の原子力発電所に長年眠っていた放射線をエネルギー源とする古代怪獣「ムートー」が覚醒、ハワイを襲撃した後、米西海岸に上陸するというストーリーになっている。そして、この「ムートー」を退治するのが、捕食生物で古代以来から戦ってきたゴジラという設定だ。日本の原発メルトダウンを起こして退避区域が設定されていたり、政府が原発事故を地震と偽装したりと、この作品も3.11に着想を得たものなのは間違いない。

もっとも、この映画で注目すべきは「ムートー」を排除するため、当然のように核兵器を利用しようとするアメリカ軍高官を、日本人科学者が説得して、ゴジラに退治を任せるべきだと主張することだ。核という「科学」ではなく、ゴジラという「自然」を用いて、もうひとつの自然の脅威である「ムートー」を制圧すべきだとするのである。こうして、核の脅威はアメリカ人自らの手でもって退けられることになる。

シン・ゴジラ」は、日本という国が怪獣退治に不能であることをみてとった国際社会が、核攻撃を画策、これを憂国の官僚たちが技術を駆使して阻止するという筋立てなのに対し、アメリカのゴジラはアメリカ人が日本人に説得されて核攻撃をあきらめるという筋立てなのだ。渡辺謙演じるこの日本人は、広島の被爆者二世という設定にもなっている。

国際社会での核をめぐる動向

2016年8月、国連の核軍縮作業部会は、核兵器禁止条約に向けての交渉に来年中に着手するよう勧告する報告書を採択したが、日本の代表団は投票に際して棄権したと報道された。報告書を作成の過程では、条約に反対の姿勢を示したともいわれている。日本政府は2015年にも、国連総会の委員会で、核兵器の非人道性や、自らが提出した廃絶のための決議には賛成しつつ、核を禁止する決議案そのものに対しては立て続けに棄権している。

確かに、日本は非核三原則を頂く国である一方、中国と北朝鮮という核保有国に囲まれている。しかも前者はCTBT(包括的核実験禁止条約)批准しておらず、後者はこれに加えてNPT(核不拡散条約)から脱退していて、何れも核兵器を規制する国際レジームに関与していない。従って日本は同盟国アメリカの核の傘に依存せざるを得ず、核兵器使用禁止に向けた動きは核抑止力を弱め、自国の安全保障を危機に晒すことになる。それゆえ、核使用禁止は現実的な選択肢ではないというのが政府の立場だ。2015年に合意された「日米軍事協力の指針(ガイドライン)」では、「米国は、引き続き、その核戦力を含むあらゆる種類の能力を通じ、日本に対して拡大抑止を提供する」と明記されている。日本の平和と外交はアメリカの核の傘を前提としているのである。

シン・ゴジラ」は時代遅れになるか

「唯一の被爆国」であるからこそ非核保有国であり、だからこそアメリカの「核の傘」に頼らざるを得ないという現実――こうしたねじれた現実があってこそ、シン・ゴジラの筋立てははじめて成り立つ。そうでなければ、日本がゴジラに自国の核兵器を用いるのは可能となっただろうし、アメリカが日本に核利用を迫るという設定もあり得なかっただろう。そう考えた時、「シン・ゴジラ」は、3.11という偶発的事件を上回る歴史的リアリティも内包していることになる。

しかし、アメリカ『GODZILLAゴジラ』との対比は、核の傘を前提とした日本のリアリティがすでに陳腐になりつつあることを示してはいないだろうか。なぜなら、「アメリカ・ゴジラ」は、核保有国のアメリカこそが、被爆の経験を持つ日本の歴史を追体験して、怪獣退治に核兵器を利用するのを断念するという、別様なリアリティを提示しているからだ。アメリカ・ゴジラは、日本版のように「核でも退治できない怪獣」ではなく、「核以外の手段で平和をもたらす怪獣」としての地位を与えられていたのだから。

平和をもたらすものとしてのゴジラは、単なる空想のものではない。5月に被爆地広島を訪問したオバマ大統領は「私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求すべき」と述べ、「科学的な変革」には「道徳的な変革」が伴わなければならないと謳いあげた。放棄されたものの、オバマ政権は核の専制不使用の宣言へも踏み込んで構想した(これにも日本は反対の立場を非公式に伝えたとされている)。「唯一の被爆国」に変わって最大の核保有国ならではのリアリティが現実を作ろうとしている。

時代を予感させるのは、シン・ゴジラではなく、アメリカ・ゴジラの方である。おそらく核廃絶に向けた最大の敵は「内側」にいる。その限りにおいて、シン・ゴジラはいまもなお正しいのだろう。しかしそのゴジラは泣いてはいないか。

 

(本エントリは「各自核論 ゴジラと核をめぐる日米」2016年9月17日付『北海道新聞』〔朝〕と題した寄稿文に加筆したものです)