【書評】ミシェル・ウエルベック著『服従』の読み方 。

 

服従

服従

 

 

この本は二度に渡ってパリを襲った同時テロとともに人々の記憶に長く残るのだろう。時は2022年のフランス、圧倒的な人気を誇る極右政党の大統領候補を落選させるために、既存政党はムスリム同砲団(エジプト・ムルシー大統領も属していたスンニ派宗教組織)の候補者を担ぐ。欧州最大のムスリム・コミュニティを持つフランスへの産油国の支援もあって同胞団は勢いづく。かくして世俗の極右vs宗教教原理主義が政治の対立軸となり、ムスリム同胞団のモアメド・ベン・アッベスが大統領に選出、シャリア(イスラム法)のもとで統治が行われていく――これらの政治的事件が、放蕩無頼を尽くす文学教授フランソワの視線で語られるというのが本筋だ。

 

2015年1月7日の『シャルリ・エブド』襲撃事件当日に発刊されたという話題性やその後の国民戦線の伸張もあって、作品はベストセラーになった。ただし、日本のみならずフランスでもイスラム原理主義の脅威を喧伝する小説と解されたが、それは皮相な見方である。ゴングール賞作家の理知的な作家ウエルベックのメッセージは、もっと重層的でアイロニカルなものだ。

 

ウエルベックは、出世作『素粒子』から一貫して、解放された自由な人間の孤独を偽悪的にまで描いてきた。彼は、経済と性という二つの領域での解放が、社会の物質的・精神的格差をますます広げていっているという。ポスト現代社会では禁忌や抑圧が際限なく取り除かれていくが、それゆえ人は生きる意味も目的も与えられず、内的な空虚を肥大化させていく。

 

実際、主人公は職業的地位や性生活でも満たされた生活を送るものの、欠落を前提としたひりひりとした個人主義的な社会で自分の欲望を持て余す。「吐き気を催すような解体がここまで進んでしまった西欧の社会は、自分で自分を救う状態にはもうないのだ」(266頁)。対するイスラムが支配する世界では、道徳もお金も救いも用意されている。ムスリム同砲団の政権が発足してから、治安は改善され、景気はよくなり、それまでの恐れが大げさなものだったことも明らかにされる。

 

このように、ウエルベックの目線はイスラム原理主義にではなく、もはや人間精神を救済できない現代社会に投げかけられているのだが、ここで浮上するのが信仰の問題である。クライマックスでは、文学全集の編纂とイスラム教への改宗という条件をあっさりと快諾して、主人公は大学への復職を果たす。その直前に、彼はカトリック修道院で修行し、信仰が何の救いもならないことを悟ったからだ。

 

それというのも、ポスト現代社会では、信仰が個人の生を操舵するものではなく、個人が操る対象でもあるからだ。主人公は、自らの出世と欲望(一夫多妻制!)のために、なんなくムスリムになる。信仰とは極めて個人的なものであるゆえ現代になって強度を増していっているという、哲学・社会学での「ポスト世俗化」の議論とも、このウエルベックの小説は響き会う。

 

主人公の専門が、エミール・ゾラなどと同様に自然主義文学の系譜に位置づけられ、その後突如として神秘主義へと接近した19世紀の文学者ユイスマンスなのも示唆的だ。「ユイスマンスはまったく他の人間と同じなのだ。つまり自分の死には無関心で、本当の関心事、本当の心配事は、身体的な苦悩から逃げられるかどうか、ということだった」(271頁)。

 

小説は「ぼくは何も後悔しないだろう」という主人公の独白で締めくくられる。イスラム教を反射鏡のようにして、自由社会における個人の満たされなさを暴いた上で、最終的にその空虚さに自発的に「服従」することで人間を諦めないこと――ヒューマニズムの否定と肯定の弁証こそが、『服従』を比類のない傑作としているのだ。

 

           (月刊『公明』2016年5月号の書評より転載しました)