安保法制反対デモを政治学でとりあえずみてみる。

 ここ最近、立て続けにオーディエンスの多くが大学生で、彼ら/彼女らの前で話すという機会がありました。

 話す内容そのものとは直接に関係ないのですが、時節柄、その関心は若者と政治に集まっていて、中でも「デモ」について関心が高いということが伺えました。

 そこで、一般的に政治学は「デモ」という現象をどう捉えてきたのかという点について、以下ではごく教科書的に3つ+αの立論紹介しておきたいと思います。

 少なくとも、単に不満や政治的イデオロギーに捉われた人々が自己の意思を表明するだけのものとしてデモを捉えるといった幼稚な認識はなくなりました。

 ただ、もしここでの説明が正しいのだとすれば、「デモ」とは実際にはデモそのものというより、デモをどう解釈するかという、私たちそのものが問われているものだということが良く解るかと思います。

 

議論は19世紀からあった

 民衆が街頭に出て、時々の状況に反対の意や賛成の意を示す「デモ(示威)」は古今東西、昔からありました。こうした「集合行為」(当時そういう言葉は編み出されていませんでしたが)について、最も早くに観察・分析としたものとして有名なのは、フランスの社会心理学者(というよりも評論家といった方が正確ですが)ギュスターヴ・ル=ボンが1895年に著した『群集心理』です。

 19世紀後半は産業革命が一巡し、都市政治が発達し、20世紀前半の民主化の定着に向けた揺籃期であり、そのような時代に新しく社会に誕生した根無し草の「群衆」の存在が、社会的な問題となり、学問上の関心も呼ぶことになりました(こうした時代背景については、杉田敦「ル・ボン――群衆の登場」杉田敦編『国家と社会』岩波書店に詳しくあります)。 

国家と社会 (岩波講座 政治哲学 第4巻)

国家と社会 (岩波講座 政治哲学 第4巻)

 

 

「資源動員論」

 20世紀後半になって民主化を達成した先進諸国では、社会運動といえば、労働運動や左派政党の運動の代名詞のようになっていきました。そこで出て来たのが「資源動員論」というデモについての解釈です。

 これは読んで文字のごとく、デモ参加者やプロテスターを「資源」として捉えて、何らかの政治的目的を達成するために動員することからデモが生じるとする解釈です。ここでいう資源とは、お金やヒト、ネットワークなど有形無形のものがありますが、皆で達成すべき目標があって、それを達成するためにデモが行われる、といった合目的的な視点から、デモを説明しようとするものです(代表的な論者としては革命分析にも応用したチャールズ・ティリーや政党との結びつきを重視したコルピなどがいます)。

 デモ論の分類もしている小熊英二『社会を変えるには』(講談社学術新書)での言葉を借りれば「資源動員論」とは「不満があるから暴動がおきるといった非合理的な行動」ではなくそれが「合理的な行動だと唱えるもの」だとし、そのために「資源を動員し、成功に導く戦略をたてること」というものになります。

 

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)

 

 

 先の安保法制反対のデモをみて、「あれには民青が背後にいる」とか「特定の政党が動かしている」とか、そういった類の指摘がありましたが、そうした目線はこの「始原動員論」によって解説されてきたデモのイメージをそのまま投影してしまっているからにほかありません。

 例えばちょっと前に産経新聞デモ参加者を調査したものの記事を出したところ、当然のように、色々な批判を受けましたが、これも、産経新聞がもはや通用しない時代遅れの立場に立って、デモを解釈しようとしたからにほかなりません。

 

「政治的機会構造論」

 それまで基本的に人々の心的側面に焦点を当ててデモを説明しようとする流れ(ル=ボンの群衆は「感染」することによって膨れ上がるといった言葉に象徴的です)に対してはこの「資源動員論」といった、より客観的かつ構造的な視点が導入されることになりました。中では「政治的機会構造論(POS)」という、もう一つの有力な解釈の枠組みが出てきました。

 これは、どんなに人々に力があろうがなかろうが、不満を持っていようがいまいが、「政治的機会」が訪れなければ社会運動も起きないという解釈をとります。つまり、統治の緩みとか政治エリートの対立とか、抗議する側が「勝てる」と認識することなど、様々な「機会」を作るものがあって、それらの条件が合致した時に、社会運動は起きるといいます。

 わかりやすく言い換えると、成功した社会運動があるとして、それはかくかくしかじかの条件が揃っていたから、生起し、運動としての目標が達成できたのだ、と説明するわけです。代表的な論者としては、シドニー・タローやマッカダムなどのアメリカの政治社会学者がいます。

 やはり安保法制反対のデモについていえば「あんなことをやってもどうせ意味がない」とか「#絶対に止める、なんて本当か」といったリアクションは、デモが成功するか否かということを基準にした見方であり、この政治的機会構造論に影響を強く受けた見方ということになります。

 

その後の議論

 この時期は、アメリカでもそうでしたが、とりわけ西ヨーロッパでは「68年革命」が起き、また各地でのフェミニズム・マイノリティによるデモや社会運動が相次いだことから、社会運動についての大きな認識の変化がありました。その結果生まれていったのが「新しい社会運動論」というものです。ここではまた、一旦は離れた人々の心的な傾向を含める形で解釈がなされるようになったことも特徴となります。

 この時に必ず言及されるのは、アラン・トゥレーヌとアルベルト・メルッチという2人の社会学者です。トゥレーヌは、ポスト産業社会にあって社会運動は階級を基盤にしたものではあり得ず、生活世界や市民社会を浸食する「システム」への抵抗運動となり、組織ではなく個人が、経済的利害ではなくアイデンティティが核となって展開していっている、と診断しました。社会における争点が多元化すればするほど、社会運動も細かでアドホックなものになっていく、ということです。 

ポスト社会主義

ポスト社会主義

 

   ほぼ同時代人のメルッチは、こうしたトゥレーヌの時代認識を共有しつつも、現代の社会運動はもっと流動的で予測不可能なものになっている、としました。デモを含む社会運動は、自由な個人によって率先されるが(『個人で考えてください』というSEALDsの奥田愛基氏の発言にも通じます)、それは予め固定的な目標によって導かれているものではなく、参加者同士の新たな関係性やアイデンティティの構築を含むゆえに、運動の目的や構成のされ方が常に再定義されることになる、ということです。

 個人化(『個人主義化』ではありません)は現代社会の大きな特徴のひとつです。ちょうど、トップダウンで計画されていたテロリズムが、グローバル・ジハードのように、より自発的かつ分散的なものになっていったようなイメージに重なるかもしれませんが、こうした個人化された個人がなぜ集合行為をするという説明をする時に、メルッチの解釈は妥当なものといえるかもしれません。 

現在に生きる遊牧民(ノマド)―新しい公共空間の創出に向けて

現在に生きる遊牧民(ノマド)―新しい公共空間の創出に向けて

 

  最近では、こうした社会運動によって新規の社会性や関係性を構築することこそがデモの本質なのだとする考え方も有力になってきました。デモが何を達成するかが重要なのではなく、社会のメジャーコードとは異なるコードをデモを通じて生み出していくこと、それによって、それまで分散されていた個人をつなぎあわせ、新たな一体性を作り出すようなイメージです。

 こうした「ポスト新しい社会運動論」や「新しい・新しい社会運動論」については、邦語では伊藤昌亮『フラッシュモブズ―儀礼と運動の交わるところ』(NTT出版)、同『デモのメディア論』(筑摩選書)、五野井郁夫『デモとは何か』(NHKブックス)などに詳しいので、関心を持った方はそちらを当たって下さい。最近では、こうした議論を「カウンターデモ」に当てはめて解釈しようとするものもあります(富永京子「社会運動の変容と新たな「戦略」―カウンター運動の可能性」、山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』、岩波書店)。 

フラッシュモブズ ―儀礼と運動の交わるところ

フラッシュモブズ ―儀礼と運動の交わるところ

 

  

デモのメディア論―社会運動社会のゆくえ (筑摩選書)

デモのメディア論―社会運動社会のゆくえ (筑摩選書)

 

  

「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義 (NHKブックス No.1190)

「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義 (NHKブックス No.1190)

 

  

奇妙なナショナリズムの時代――排外主義に抗して

奇妙なナショナリズムの時代――排外主義に抗して

 

 

これからの議論 

 以上のようにごくごく大雑把にデモについての政治学・社会学での議論を俯瞰してきましたが、それでもどこか腑に落ちない点も少なくないように思えます。とりわけ、今回の一連の安保法制反対デモについては、以上の議論のどこからどこまでが当てはまり、どこからが当てはまらないのか、これから冷静に議論していく必要があるように思えます。

 その中で押えておくべきポイントは、1.デモ等の直接的な政治参加は、先進国と比較して日本では低調なままだった、2.90年代を通じて現在までいわゆる政治的有効性感覚(自分の声が政治に反映されているという意識)も低かったこと、3.原発再稼働に反対する「官邸前デモ」以前から、2000年代に入って「街頭の民主主義」が日本でも散見されるようなっていたこと、4.日本の青少年の政治意識は決して低くない一方、それが政治的な実践となって表出していかなかったことなどが、ヒントになるかもしれません。

 また、先進国では当たり前のようになっているデモが持つ独特の祝祭性(お祭り、祭を通じた共同意識の醸成、楽しさ)の萌芽がみられるのも、重要な点だと思います。最近では、イタリアの五つ星運動(M5S)、スペインのポデモス、ドイツ・スウェーデン海賊党など、社会運動と政治運動が、それこそシームレスにつながっている政治空間も広がっています。日本でもそのような局面が訪れないとも限りません。

 何れにしても、ここ日本でも、デモは正当なものとして、政治参加の重要な手段のひとつとして定着していくことは間違いがありません。民意を表出する回路は多様である方が良いわけですから、そのことは歓迎されるべきことです。これは拙著『感情の政治学』(第4章)でも指摘したことですが、「方法論的個人主義」に基盤を置く社会科学において何のつながりや利益も共有していないような人々が行う「集合行為」はひとつの「謎」として捉えられてきました(いわゆる「フリーライダー問題」)。

 いや、デモは謎なのではなく、ひとつの必然でもあるのだ、と早く言えるようなツールや解釈の枠組みを作って行ければと思っています。その上で必要なのは、これまでの古びたイメージでもってデモを持ち上げるのでも、揶揄するのではなく、そのメカニズムと強度がどのようなものなのかを見極めることにあることは論を待ちません。