『感情の政治学』

■久々のアップになります。

さて、8月11日に新刊が出ます。タイトルは『感情の政治学』講談社メチエ)。

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感情の政治学 (講談社選書メチエ)

ときにこの講談社の選書メチエというレーベル、確か私が大学生の頃に発刊され、古今の思想家・哲学者のサインが印字された栞(しおり)が入っていて、(今も入っています)、それをコレクションするために色々と買っていた記憶があります。そういえば、講談社は『現代思想の冒険者たち』シリーズにいしいひさいち氏のマンガ「現代思想の遭難者たち」を挿入していたし、遊び心があります。


現代思想の遭難者たち 増補版現代思想の遭難者たち 増補版
(2006/06/21)
いしい ひさいち

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■さて、本の内容です。
 『感情の政治学』を書くに至った経緯は色々ありますが(「あとがき」参照)、基本的には前著『ポピュリズムを考える』(NHKブックス)の最終章で取り上げた「政治における(合)理性−非(合)理性」の問題系をさらに展開しています。

■もう少し具体的にいうと、「政治参加」はどのような経路を辿って成し遂げられてきたのか、また、これから成し遂げられていくべきなのか、そしてそれを(政治学は)どのようなコンセプトで説得していくべきなのか(あるいは説得しなくともよいのか)という、やや原理的な問題を、古今の思想家・政治学者の言説や映画などを使って考えています。
 例を引けば、昨今の投票率低下や若年層の低参加が問題視されていますが、「主権者なのだから投票して当たり前」、「若者が投票しないから世代間格差がなくならない」という、それ自体、ややナイーヴな主張が横行しています。しかし、こうした主張はそもそも実証的・規範的にみて正しいのかどうか、ということをまずは検討しなければならないでしょうし、また、インターネット選挙解禁もあって最近流行った「ボート・マッチング」なども、それが政治参加を促すツールになるのかは疑問の余地があります。世界では、投票のコストを下げたことで、投票率が下がってしまったという例もあります。

■そうした問題は2013年の参院選直後に新聞紙上で指摘しました。以下再掲します。
「一票は群れてこそ活きる」 北海道大学准教授・吉田徹さん(2013年7月27日 朝日新聞
  参院選では、ネット選挙解禁と相まって「ボートマッチ」と呼ばれる類のサービスがメディアで注目を集めた。ネットで候 補者のデータや政策を閲覧できたり、自分の政治的意見を選択すると「最適」な投票先政党を提示してくれたりと、実に親切な仕掛けがしてある。しかし、市民が政党や候補者の主張を比較考量して「正しい」政策を選び、自分の一票を投票箱に投じさえすれば、そのまま「正しい」政治が生まれると考えるのであればナイーブに過ぎる。低投票率と個人化にあえぐ今の政治において、問われるべき点はここにある。
  政策や争点を軸にした政治というのは、是非はともかく、モデルに過ぎない。教科書的に言えば個々人が自らの選択肢に忠実であり、諸政党がこれに応じた異なる政策を掲げ、その差異を有権者が十分に理解し、さらに当選した暁にはその政策が実行されると確信していなければならないという、気の遠くなるような条件が全て満たされる必要があるからだ。この理想に現実を近づけようと政治家に「争点隠し」を止めよといくら訴えても、それが利得になる構図が続く限り、耳を貸すはずがない。
  残念なことに、有権者の一票で政治が変わるというのも幻想に過ぎない。大激戦だった東京選挙区での当選者と次点の票差は5万9674票。どんなに共感しようとも、当選しそうにない候補に投票しないのも、勝ち目がないことがわかっているからだ。有権者の一票は限りなく軽く、時々の政治状況から逃れることもできないのだ。
  間違った前提は間違った帰結を導く。専門家でも見解の異なる政策を軸に政党が競い合えば合うほど、現実と期待の溝は深まり、「正しい一票」は行き場を失う。だから棄権の誘引が増し、政治への幻滅は増していく。
  政治家グラムシは合理的な思考は「個人的な運動」しか生まず、「主観的なもの」への移行こそが「闘う場」を形成する、と説いた。政治とは共同体に係る営みのことだ。だから市民は自分が何を欲しているかわかっていなければならないだけでなく、仲間や同志を作る必要性に迫られる。私の一票は群れてこそ、初めて活きる。政治はそれ ゆえに恐ろしく、また、希望と可能性にあふれているのだ。
  この政治のイロハを理解しない限り、「アベノミクス」や「原発再稼働」という「『正しい』とされる」政策に私たちは鼻面を引きずり回され続けることになりかねない。(以上)

■実の所、人が政治に参画したい、と思うことはそれほど普通のことではないのです。しかしそれでも参画せねばならないのは、あるいは参画することになるのは何故か――本のタイトルから解るように、この本では、もっと人々の持つ感情的次元やアイデンティティ、関係性からなる政治と政治的事象に眼を向けて、それに相応しい概念や思考ロジックを発明していかなければならない、と主張しています。人(一般有権者や政治家など)は、何も自分の「利得」を最大化したり、「正しい政策」を選ぶためだけに政治に参画するわけではありません。そのような視角でもって政治を論じ、政治参加を促していけば、逆に人々の意欲は後退してしまいかねないでしょう。再帰的かつ自己言及的な政治を理解するためには「方法論的個人主義(=政治現象を理解するために個人を基礎としてみること)」とは異なる視角をとらなければならないでしょう。以上は抽象的に聞こえるかもしれませんが、そうした意味でこの本は、かなり実践的な問題意識に基づいた主張をしています。

■担当編集者は「自覚的無党派層に向けられた本」と評しましたが、そのような側面もあるかもしれません。「政策は大事だけど、政治なんていらないよ」と思っている人たちにも是非読んでもらえれば、と願っています。政治のない政策なんて、有り得ないのですから。

■以下が目次と要約になります。

序論
 この本の狙いを説明しています。

第一章 政治の条件
 「政治」が発生する条件や環境とはどのようなものかを探っています。

第二章 「化」――人はどのようにして政治に関わりを持つのか
 「政治化」すること、つまり人はどのような経路や文脈で持って政治意識を持つようになるのか。
政治社会学の先行研究やケースを中心に紹介しています。

第三章 「間」――関係性の政治で新自由主義の政治を置き換える
 「個人」ではなく、「関係」による政治を探ることがいかに大切かつ有意義かを説いています。

第四章 「群」――群れて行動するということ
 ル・ボン、タルドフロイト、カネッティ等の群衆論を手がかりに、人が「群れる」ということはどういうことか、そして現代のそれはかつての「新しい社会運動」などと何が違うのかを探っています。

第五章 「怖」――恐怖はどこからやってくるのか
 政治における「恐怖」の感情は普遍的な存在であることを強調し、その理由をホッブスアーレントの思想を通じて説明しています。

第六章 「信」――政治で信頼はなぜ必要になるのか
 逆に政治における「信頼」はいかに大切となるのかということを、ソーシャル・キャピタル社会関係資本)の議論をおさらいしつつ、具体的に論じています。日本は、決して高信頼社会ではありません。だから信頼は「発明」される必要があります。

参考文献・あとがき

■この本は、おおよそ2年間、移動が多い中で少しづつ書き進めてきたものですが、校正の段階で長期入院を余儀なくされて、発刊が一か月ほど遅れてしまいました。そうした意味で個人的には感慨深いものもあるのですが、「政治学者」としては外角すれすれの所で勝負した感もあり、自分の持っている「政治」の定義を思う存分出すことができました。だから後10年位は何もいうことはないだろう、とすら思える一冊になりました。