「夏の思い出」

 「困ったなぁ」。父親の困惑をよそに、7ヶ月の息子は足元に群がる公園の鳩に興奮している。暦はすでに9月。ほぼ10年ぶりに住むパリはそう大きく変わっていなかったが、変わっていたのは自分だった。何分今度は家族連れ、読み違えたのは子供の預け先が中々見付からなかったことだ。「子供大国」のフランスのこと、保育所は簡単に見付かるだろう、と高をくくっていたのが、区役所でもらった保育所や託児所リストに片端から電話しても、どこも「空きがない」の一点張り。子供が一気に増えてインフラが追いつかないのだ、と予約だけ受け付けてくれた保育園の所長が申し訳なさそうに説明してくれた。

 このままでは、「研究専念期間」が「育児専念期間」になりかねない、と危機感を募らせる。情報収集に「パパ友」でも作るか、と近所の公園に行ってみたものの、顔見知りになったのは毎回タバコをねだりにくるホームレスだった。楽しみにしていた歴史家ロザンヴァロンの「デモクラシー三部作」も読みきってしまった。

 「仕方がない」。オムツを公園のベンチで取り替えて向かったのはバスチーユ広場。退職年齢を60歳から62歳に段階的に引き上げることをフィヨン政権が正式に発表したのは6月のこと。これを受けてバカンス明けから断続的に、労働者と大学生・高校生がデモとストを繰り広げている。今日の『ル・モンド』によれば、バスチーユからナシオン広場に向かって、この改革案に反対するデモがある。どこかに出掛けるにも、ベビーカーでは行く場所が限られる。天気もいいし、数百万人が動員されるのだから、ベビーカーで行っても迷惑にはなるまいと踏んだのである。

 案の定、付近はカラフルな徽章やバルーンで彩られた労組や市民団体の集合に埋め尽くされていた。何事かと、息子は「アバ!レフォルム(改革を潰せ)」のラップ調シュプレヒコールに大きく目を見開いている。立ち並んだ屋台で買ったサンドイッチをビールで流し込みながら、モゴモゴと恥ずかしげにシュプレヒコールに声を合わせてみる。移動する途中、署名運動に協力したりビラをもらっていたら、数時間があっという間に過ぎていた。もっとも抗議の甲斐なく、改革法案は10月に採決された。

 こんな体たらくでは迎えた甲斐がないと思われたのか、それとも、毎回汗をかきかきベビーカーを押してくるのに同情したのか、滞在ヴィザの手続きをしてくれているCNRS(仏国立科学研究センター)の「社会活動課」の担当者が、「研究者用の特別枠があるから」と、パリで一番古いといわれる保育所に斡旋をしてくれた。こうして、短い「育児専念期間」は法案可決とともに、あっけなく終わりを迎えることになった。

 12月の重くどんよりした灰色の空のもと、今では静まり返った研究所で講義ノート準備や史料保管先の確認、本の構想を練る。あの9月の暖かい日差しを遠くに思い出しながら。

北海道大学高等法政研究教育センター J-Mail 第34号より転載)