30年前の5月10日。

1981年5月10日は、フランス第五共和制(1958年〜)で初めて左派の大統領が誕生した日として記憶されています。第五共和制は、ドゴール大統領による政治体制でしたから、その中で四半世紀をかけて政権交代を実現するのは容易ではなかったということになります。意味するものが多様であるにせよ、「5月10日(10 mai)」は、フランス社会にとっての、もはや集合的記憶の固有名詞になっているといいかもしれません。

ツイッターでも呟いてましたが、2010年の今年はその30周年ということで、ミッテラン大統領と続く社会党政権誕生を回顧する企画が続々行われています。

5月6日は、仏社会党系のシンクタンクであるジャン・ジョレス財団、ミッテラン研究所、パブリック・セナ(フランス上院のC-Spanのようなテレビ局)共催のシンポウムが開催されました。ミッテラン研究所の所長を務めているヴェドリーヌ元外相(長らくミッテランの外交補佐官を務めていました)に人を介してお願いしている仕事の確認もしたかったということもあり(結局取り巻きが多すぎて話はできませんでしたが)、やはり以前シンポジウムの際に行って以来、上院に足を運んでみました。

政治家が主体とはいえ、上院の大きなホールを借り切っての贅沢なもので、歴代の著名ジャーナリストを司会者に、モーロワ、ファビウス、ジョスパンといった首相経験者、文化大臣として名を鳴らしたジャック・ラング、そしてこれも史上初となった共産党閣僚のフィッテルマン、さらには81年の大統領選挙を担った党のポール・キレスなどがパネリストとして参加していました。現社会党党首のオブリの参加こそありませんでしたが、2007年大統領選でサルコジの対立候補だったセゴレーヌ・ロワイヤルの出席などもあって、華やかながらも賑やかなシンポジウムでした。

とはいえ、余り生々しい話が出たわけではなく、どちらかというと大がかりな同窓会のようなものでした。上に出た政治家のうち、何人かは除いてすでに政治の前線からは退いており、エピソードを披露して喝采と感心をさらう、といった印象でした。

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勢揃いです。

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記者団に囲まれるセゴレーヌ・ロワイヤル。

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モーロワ首相による締めの演説。

ロワイヤルが意見を求められて聴衆席から「それはミッテラン政権から参加民主主義があったということですね」とお得意の「参加民主主義」を口にすると、檀上からファビウスが「閣議に参加した君ならわかると思うけれど、ミッテランは参加民主主義からほど遠かったのも事実だしね」と返したのにも、聴衆には受けていました。こうしたいかに上手い「切り替えし」をするかが、政治家評価の分かれ目で、お笑い芸人さながらの話術と反射神経が求fらられます。日本では「何て軽い政治家」と馬鹿にされそうですが、個々の当時の証言、関係者たちの間での問答、そして最後の締めには80歳を過ぎたモーロワ元首相の「今一度社会主義の精神を」という大演説で終わり、誠に上手い演出がされていて、芝居を見るがごとく、楽しめました。

 これだけ何人もの政治家が一堂に会すると、それぞれプレゼンテーションの仕方、話題の持っていき方、話術の巧みさなどが一目瞭然で、それだけでも価値があったかもしれません。

 中でもジョスパン元首相は、面白みに欠けるものの、一番インテリかつ構造的な話し方をするというのが印象で、他にもいろいろな要因があったにせよ、彼が1997年の大統領選で勝てなかった理由のひとつなのかもしれません。

 30周年記念当日は、それこそ劇場を借りての、今度はもっと多くの政治家を集めての社会党系の催し物があったのですが、やや食傷気味だったこともあり、パリ政治学院歴史センター(CHSP)主催の「フランスと左派」と題されたセミナーに参加することにしました。スピーカーで、パリ政治学院のグランベルグ氏にパリにいることを報告するという目的もありました。

 ここからもわかるように、こちらは政治家ではなく研究者が主体で81年5月10日を語るという趣旨。フランス政治史の大家であるシリネッリ氏が時代的変化から、グランベルグ氏が選挙戦術の観点から、その他若手を交えて午前・午後の部に分かれて終日のセミナーです。ただ、こちらにも当時のアクターとしてジョスパンとロカールという、やはり首相経験者が招待され、それぞれの立場から研究者の報告に対して返答をするという、やはり何とも贅沢な企画です。日本でもこの種の企画をすべきなのだろうと思うのですが、研究者と政治家が話す言語そのものが違うという状況では難しいでしょうか。以前の日本政治学会で、政治家を呼んでの企画が提案されたことがありましたが、結局この政治家自身が申し出を断ったので実現しなかったという経緯があったのを思い出します。ただ、ここでもパリ政治学院の母体である「国立政治学院」会長であり、経済学者でもあるジャン=クロード・カサノバ氏が「私がバール首相の官房にいた時は」(彼はレイモン・アロンにつらなるリベラリストとしても有名)と言って、自身の経験を語れる所からいっても、日本と環境が違うと言い切っていいのかもしれません。

 シンポジウムやセミナーですから、結論らしきものがあるわけではないのですが、この2つのイヴェントで概ね確認されたのは、以下の三つのことだろうと思います。

大勢が一致したのは、社会党大統領の誕生によって、第五共和制が「完成」したという逆説的な指摘です。
もともと第五共和制はドゴール派以外のほとんどの政治勢力が反対していた政治制度です。ミッテラン社会党も例外ではありませんでした。しかし、大統領になったミッテランが基礎的な制度を改編しなかったことで、保守だけでなく、左派にも第五共和制が受容され、その枠内で政権交代が行われるようなりました。つまり、フランス左派と保守の間の大きな溝であった政治体制をめぐる対立が、左派の大統領誕生によって解消された、という点です。

 もうひとつは、ミッテランの81年の選挙での勝利は決して確定的なものではなかったということ。

 もちろん、シラクが出馬して保守が分断されるなどいくつかの要素がミッテラン有利に働いたののは事実ですが、構造的には僅差で競っていたのが、最後の最後で勝利に持ち込んだのはミッテランの戦術的な判断に拠る所が多かった、ということが言えるかと思います。

 「風」が吹いていても、それに乗れるかどうかは政治家個人の力量に拠る、ということでしょう。

 そうした意味では、ミッテランという、やはり稀有な政治家を主語にしなければ解らない部分も多いといえます。

 ミッテラン大統領といえば、おそらく、フランス大統領という「国父」のイメージ、40年近くに渡って政界を渡り歩いてきた「策士」のイメージ、そして文学と歴史、女性をこよなく愛したという「文人」のイメージの三つに分けられると思いますが、おそらくその最大の能力は、状況を見極め、その中で自分のポジションが最大限レバレッジが効くようにし、そして徹底的に「振り」をすることで、戦略を実現していく、という「クレバーさ」にあるのだと言えます。そうした意味で、極めて現実主義者でありつつも、理想主義的な側面も持ち合わせていて、その間を往復運動していたからこそ、国民の支持が続き、そして今も回顧の対象になるのではないでしょうか。

 もうひとつは、やはり80年代という時代の刻印があります。あるジャーナリストが、ミッテランが「私は最後のフランス大統領だ。これからはグローバル化も欧州統合もある。かつての大統領はもはや大統領ではないだろう」という趣旨の発言をしたと記していますが、ミッテラン時代を回顧する時、「フランスがフランスのままであり得た時代」というものへのノスタルジアがあったことも事実なのだろうと思います。つまり、「偉大な大統領」と「偉大なフランス」、これが重複した時にこそ、回顧の対象となるのです。

 「番外編」として、昼休みには5月10日に合わせての社会党でのイヴェントを覗き(大学生の文化祭といった趣で、緑の党のデモがわざわざ迂回してきて、原発に反対なのか賛成なのか、と押しかけてくる一幕もありましたが)、そして夕方からはバスティーユ広場でのロックコンサート(30年前にも同じイヴェントがありました)に参加してみました。会場には、配られていたミッテランバッジをした中年夫婦もちらほら。彼らも30年前には、同じ場所にいたに違いありません。帰宅してからは、テレビでミッテラン時代のドキュメンタリーと、まさに5月10日とは何なのか、そしてフランスの80‐90年代とは何なのかを考えさせられたと同時に、自分の研究をも回顧する良い一日でした。

R0016397.jpg 中庭には密かに、93年に自殺したベレゴヴォワ元首相へと赤いバラが手向けられていました。

R0016393.jpg 1988年の大統領選の際の「ミッテラン世代」。一番手前にみえるおじさんは、ミッテランのコミュニケーション選対にいたモアティ氏。

R0016396.jpg1981年5月10日のバスティーユ広場。

2010年5月10日のバスティーユ広場。R0016403.jpg

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