歴史と文書。

公文書法案が成立する見通しとのこと。
http://www.47news.jp/CN/200905/CN2009052101000372.html
公文書保全のための法律は福田首相の肝いりで、ずっと続けられてきた。

ヨーロッパ政治史を講じる身ではあっても、歴史家としては中途半端な立場で、日本外交史の専門家でもない身としては、国の公文書の精度や内容についてとやかく言える資格はもちろんない。

ただ、海外で史料を漁るにつけ、アーキビスト(史料管理専門家)の歴史に対する意識、もっといって歴史に対する感受性には敬服の念を抱くことしばしばである。獲物を捜し求める研究者の道案内人となって、埃のかぶったダンボール箱を取り出してくる各地のアーキビスト達は、歴史の記憶装置の守護者であるというプライドと、そのプライドから派生してくる、歴史を共有したいと願う他者への愛情が溢れている。地味な研究の中で、同志と出会える瞬間である。

こうした感想は多くの学者に共通していることなのだろう、海外の歴史研究をやっている仲間うちでは「ロンドンのPRO(公文書館)はやはり素晴らしい」とか、「フランスのAN(国立公文書館)にストで行けなかった」、「アメリカの大統領ライブラリーでは顔パスだ」等々、情報交換や自慢話に華が咲く。そうした会話から透けて見えるのは、そのお国柄だ。英独の文書館のシステムや資料整理は徹底しているし、反対に南欧諸国はどこかいい加減だ。もっと重要なのは、政治家や官僚の意識も史料からみてとることができる点である。律儀に全て揃っているもの。揃ってはいても無意味なものしかないもの。自分のところに囲ってしまう場合。あるはずのものがない場合などなど。

日本の公文書制度は、過去の報道の多くを読む限り極めて貧困で、とても及第点はつけられないような気もする。情報公開制度で、各省庁の公文書廃棄が進んでしまった、というのは有名な話だ。移管文書の量は施行以前の四分の一程度にまで減ってしまったという。外交文書は「外務省が独自に行ってきた制度」で多かれ少なかれ検証できるのだとしても、例えば旧大蔵省が関わったルーブル合意や旧通産省が関わった日米構造協議にまつわる一次資料がどれほど遺されているかも心もとない。結局、今回の法案も民主党が主張したほどには厳格なものにはならなかった。

国にどの程度の歴史資料がきちんと保存されているかは、端的にいってその国のソフトパワーの度合いを決めることになるのではないか。米国では、日本の約60倍、ヨーロッパ各国でも約10倍の公文書館職員がいる。ギリシア神殿のごとく聳え立つワシントンの公文書館と、近代美術館の横にある日本の国立公文書館の、ワンフロアに押し込められた閲覧室の落差と意識の違いは歴然としている。その米公文書館が掲げる標語は「デモクラシーはここから始まる」である。

もちろん、望ましいこととはいえ、制度的な拡充を行っても、組織内の現用文書を網羅的に収集するのは物理的に不可能である。基本は資料を扱う人間の歴史的な感性にかかっている。

旧東ドイツには、1700万人の市民を監視するために、9万人もの職員を抱えた国家保安省なるものがあった。89年、ドイツ統一が現実味を帯びた時、東独市民は、悪名高いシュタージ=秘密警察が記録した文書の破棄を恐れて保安省に駆けつけ、占拠した。自分たちに掛けられた嫌疑を晴らし、自分たちを監視していた隣人が誰かを知るためである。

保管されていた「シュタージ文書」は600万点にも上ったという。初めて自由選挙で選出された東独議会は、西独の反対を押し切って、市民が自分についての情報を知る権利を保証することを決定し、結果、数百万の市民が閲覧のために文書館を訪れることになった。その後の東独憲法には「情報に関する自己決定」を定める基本権が導入された。

公文書館という制度がフランス革命によって生まれたという事実から解るように、歴史なきデモクラシーはその名に値しない。人々はそこで、自分の人生や経験を反芻し、再構築し、未来への希望を取り戻すことを可能にする。「歴史とは過去の諸事件と次第に現れて来る未来の諸目的との間の対話」(EHカー)。奇特な研究者を除けば、海外での公文書館を訪れる市民の多くが、実は自分の家系を確認するためだというのは、このカーの言葉のひとつの象徴に過ぎない。

かくして、歴史は個人の人生と直接的な関係を持つ。その間を取り持っているのが歴史文書でもある。そのような想像力を欠いた社会で、人間そのものに対する感受性が薄いのは当然のこととなる。カーは続けて、「私達の歴史観は私達の社会観を反映している」とも書いている。そんな国の持つ「歴史認識」を、歴史家は嘲笑うことだろう。