毒入り餃子で中毒になったのは日本人だけではない。

『君の涙ドナウに流れ(原題Children of Glory)』は駄作だったけれども、オリンピックが「平和の祭典」などというのは戯言なんだと教えてくれる映画だった。実際そう思ったことは一回もないけれども、やはりミサイルが堂々と配置されているオリンピックというのはどうも「見心地」が悪い。そしてメディアは日本人のメダル狂想曲とは別建てに一生懸命そんなイメージを増幅しようとする。

チベットウイグルと関係とはまた別建ての話だろうけれども、中国の全くの門外漢として、常々疑問に思うことがある。

数年前から、中国の市民運動は決まって反日ナショナリズムの反映なんだと日本では捉えられる。曰く国内の問題を対外的な捌け口として利用している共産党支配の巧妙なやり口なんだ、というのがその言説を支える文脈として流れている。

しかしよく報道をみれば、この反日運動の表面化と相前後して、例えば農民立ち退き強制に対する暴動や湾岸部の工場建設に対する住民デモなど、いわゆる「市民運動」的な文脈で捉えられる事件も多発していることもわかる。これは、山峡ダム建設のその「非民主的」な手法が日本で報じられて以降のことだろうか。

端的にいってしまえば、なぜ反日運動やデモが、実は中国における市民社会の誕生を意味しているのだ、という文脈がこの日本で立ち現れることがないのだろうか。それはいわゆる右にとっても、左にとっても、都合のよくない文脈になってしまうからではないか。

この密かな仮説をある中国人ジャーナリストは肯定してくれた。ただこの人は一言付け加えるのを忘れなかった。「そんな話はマスコミにとっては小難しいだけだから受けないよ」。開会式の「演出」を調査報道したのは当の中国メディアではなかったか。日本のメディアの垂れ流す中国報道は真剣に見る気がおきない。