第一回投票結果は何を意味する?

olofre

まだまだ雪景色のオロフレ峠

22日にフランス大統領選第一回投票が行われ、大方の予想通りサルコジ対ロワイヤルが決選投票に進むことになった。

第一回投票の主なトレンドを以下に記してみたい。
?高い投票率=低い棄権率
今回の投票率は84.6%、棄権率は16.2%と非常に高い政治参加を実現した。これは1974年の記録(棄権率15.8%)に次ぐものであり、さらに同選挙での有権者年齢が20歳(現在は18歳)だったことを考えれば、第五共和制史上歴史に残る記録である。さらに、新たに340万人が有権者登録を行い、国民の選挙への期待が伺える。カフェでは討論が交わされ、投票所の前には開所前から長蛇の列が出来た。

?国民戦線(FN)ルペンの凋落
ルペンは11%と、2002年の第一回投票結果の16.9%には遠く及ばなかった。これは明らかにサルコジによるFN票の吸収(サルコジ票の25%がFN支持者による)と、ルペンが決戦投票に進んだ2002年選挙への反省の結果である。ルペンの御旗である「反システム」的立場と治安重視(移民管理の提唱)がサルコジに奪われてしまった。ルペンは今回の選挙が最後の出馬であると宣言している。今後は、娘のマリー・ルペンに党運営を任せつつ、システム政党への脱皮を図っていくことになるだろう。支持者に対して決選投票での棄権を呼びかけ、国民議会選挙に傾注すべきとルペンがいうのにはそのような戦略が働いているものと思われる。

?中道バイルーの躍進
逆に18.5%と、前回から12ポイントも獲得票を伸ばしたのが中道のバイルーである。このバイルーの成功は、サルコジがFN票を狙って伝統的なゴーリストの離反を招き、さらにロワイヤルのポピュリズム的路線を嫌う左派支持者層がかなりの程度存在したことを示している。バイルーが獲得した票は丁度保守と左派支持者半々で構成されている。

候補者の政治勢力別での獲得票は、左派が36.3%、中道が18.5%、保守/右派が43.8%となっている。最新世論調査では、サルコジ52%、ロワイヤル48%となっているから、ほぼ第一回投票の勢力が再現されることになる。

与党候補と最大野党候補との一騎打ちというのは一見妥当な構図のように思える。しかし、個人的には今回の「選挙」を通してみるフランス政治は過去とかなり様相を異にしているようにみえる。その一旦だけ、両候補者のプロフィールからみておくことにしたい。

ニコラ・サルコジは、ハンガリー移民の二世として1955年にパリに生まれた。父親は裕福なハンガリー貴族だったが、44年のソ連軍侵攻で亡命を余儀なくされ、外国人部隊入りした苦労人だった。離婚を繰り返す父親をニコラが見放すのは早かった。政治的に早熟だった彼は成人を迎える前にシャバン=デルマス首相の大統領選キャンペーンに参加して一目置かれるようになる。まだ大学生だった頃、彼は周辺に「いつか共和国大統領になる」と洩らしたという。野心溢れる青年は、シラク現大統領が立ち上げたゴーリズム政党RPR(フランス共和国連合)に入党、熱心なシラク支援者となり、政治家としての本格的なキャリアを歩み始める。特にシラクの右腕だったパスクワ(後に内務大臣)はサルコジを気に入り、自信が市長だったパリ郊外の裕福な町、ヌイイ市議会へと導き、最初の結婚の仲人を務めたほどだった。
しかし彼がパスクワを見切るのも早く、指名された後継者を蹴落として自ら市長の座に収まった。財界とのパイプも、この時ヌイイに住む実業家やセレブたちと懇意になったのが始まりといわれ、実際、当時テレビキャスターと結婚していた現在の妻と知り合ったのもこの頃である。この時サルコジはまだ30歳、88年に国会議員に選出された後、バラデュール首相のもと93年に初めて予算担当大臣に就任した。
 ここからサルコジの苦難は始まる。95年の大統領選で、彼は取り巻きの厚いシラクではなく、バラデュールの立候補支持にまわって一発逆転を狙ったのである。シラクの大統領当選によって閣僚職は遠のき、任された欧州議会選挙で与党RPRは大敗したことで不遇の時代を迎える。しかし、シラクの躓きはサルコジのチャンスだった。97年に解散総選挙に失敗してコアビタシオン(保革共存)を招いて求心力を失ったシラクは、2002年の再選後にサルコジを内務大臣に指名せざるを得なかった。
 2005年に欧州憲法草案が国民投票で否決された時には首相職まで後一歩というところまで近づいた。犬猿の仲だったシラクがなぜサルコジに頼ることになったのか。それは、ド・ヴィルパン首相を初め自分に忠実な人物を余りにも優遇したために、自身の権力基盤が弱ると取り巻きも同時にダメージを負ってしまったからである。その間、内務大臣として国民の第1の懸念である治安維持に努めて人気を稼ぎ、エネルギッシュな政治活動によって与党内で求心力を高めていたサルコジ以外に後継者が見当たらないという状況が出来上がっていた。
 フランス政治は、良くも悪くもエリートたちによって常に仕切られている。学歴も、ネットワークも、資産もない人間が成功するために「父親殺し」は不可欠な手段だったといえるだろう。さらにハングリー精神に支えられたスピード感、イデオロギーに囚われないプラグマチズム、政治の劇場化によって党内での人気を博す。サルコジは、フランスでは新自由主義者、日本では超保守派と報道されているが、むしろ彼を突き動かしているものは新参者としての得体の知れないマグマのようなものである。移民を出自にする人間が移民管理を唱え、フランスへの同化を要求しているという皮肉はここに由来するだろう。

 フランス史上初の女性大統領候補として注目を集めているのは、左派社会党の候補セゴレーヌ・ロワイヤルだ。ロワイヤルはENA(国立行政学院)卒のエリート。しかし、やはり幼少期の暗い影を背負っている。厳格な軍人の父のもとに、8人兄弟の4番目の子として1953年に生まれた。この時代の軍人にとっては、第二次世界大戦でのナチス支配、インドシナアルジェリア戦争での敗北という暗い時期が続いたこととも関係しているだろう、両親は熟年を迎えて離別している。そして、ロワイヤルは女性であること自体が劣っている、という価値観に反発したことが学業にまい進した理由、と書き綴っている。彼女が政界と接点を持ったのは、1982年に時の大統領ミッテランの補佐官になった時である。リクルートしたアタリ特別補佐官は「彼女は政治の世界でしか生きて行けなかった」と証言する。政界へは、88年総選挙で落下傘候補として辛勝した時である。この選挙はロワイヤルがミッテラン大統領に直訴して得たもので、大統領は内定していた候補者を差し替えて彼女を支援したという(それ以降ミッテランの隠し子ではないかという噂が立つ)。92年に環境大臣に任命されてその後2つの閣外大臣のポストを得るが、余り目立った存在ではなかった。しかしオランド党第一書記と長らく事実婚を続けていた彼女は機を見るに機敏だった。一躍脚光を集めたのが、ラファラン首相(当時)の地元で与党候補を破って議会の過半数を得た2004年の統一地方選挙時である。社会党は、2002年の大統領選で極右のルペンに現職首相として立てたジョスパン候補が破れ、さらに2005年の国民投票で党内が「ウイ」と「ノン」派に分裂して、満身創痍の状態にあった。この時に、明るい性格で選挙に強いロワイヤル候補は、来る大統領選に向けたジャンヌ・ダルクとして君臨することになったのである。日本の自民党以上に派閥組織を抱えているフランス社会党には、多くの派閥首領を抱えている。政策らしい政策を持たず、場当たり的な発言を繰り返すロワイヤルを抑えようと党内左派と右派からの挑戦を受けたが、高い国民人気を誇る彼女を予備選で破ることはできなかった。
 ロワイヤルのもうひとつの強みは、地方政治に足場を置きつつ、ネットを利用した「参加民主主義」を謳って国民を巻き込んで党組織を外部から包囲し、さらに国政レベルでは右へ左へと政策的位置を変える戦略によって、低・中・高の政治的次元を固めたことである。
選挙参謀も地方政治を舞台にしてきた党周辺の人物を重用し、顧問として派閥首領を据え、本部も党事務局とは別個に置いた。コンパクトで機動性の高い組織作りは党からの干渉を受けないで国民受けの良い政策ばかりを並べることを可能にしたが、それは素人っぽさと紙一重であり、一貫性に欠いているという印象を選挙民に与えることになった。
 このように、サルコジド・ゴール主義のカリスマ性が希薄化していく中で、ヒロイズムを再び価値として押し出すことで人気を得て、ロワイヤルは凋落著しい社会党の中で、派閥政治にまみれていないという新鮮さを最大の武器とした。前者は「強い国家」を標榜するド・ゴール主義との訣別を図り、後者は「大きな政府」を志向してきた社会党の伝統を批判して、それぞれの政治ファミリーでアウトサイダーとして振舞ったことが成功の秘訣だった。両候補ともに所属政党の中で異端であり、体系だった政策も、イデオロギー的な立ち位置も明確でないポピュリスト的政治家という意味では同類である。サルコジがマイノリティ優遇措置を、ロワイヤルが青少年非行の厳罰化といった
従来の「右」と「左」の領域に乗り入れをしたのもその証左だ。両者は、政治的立場を異にしながらも、対となってダンスを踊っているの
である。

決着は5月6日に着けられる。また眠い目をこすって中継に見入ることにしよう。

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