「クラッシュ」。

9.11と人種問題。この二つはあの事件以来、アメリカを呪っている(haunted)ように思える。「文明の衝突」は国内へと切り込んでいった。

「クラッシュ」は、その呪いを露払いしようとする作品だった。
だからこそアカデミー賞をとることができたのだろう。

この映画が描くのは、人種を基準にして社会が回ることの理不尽さと非生産性。黒人は白人を、白人はアラブ人を、アラブ人は黒人を、黒人はメキシコ人を、それ自体が無内容なステレオタイプで偏見を再生産していくプロセスである。

人種を物差しにせざる得ない前提のむなしさから、個人の善意が結果的に悲劇へと転じていく様を、オムニバスの形式をとりつつ俯瞰していく。もちろん、この映画の中でも9.11を示唆するようなフレーズとシーンが随所に出てくる(しかし、正確を記せばこの映画にアラブ系は1人も出てこない。これの意味は何だろうか)。

思えば、エドワード・ノートン主演の「25時」がポスト9.11のアメリカ人種社会の問題を描いた草分けだったように思う。スパイク・リーの映画だから理屈立ってないが、何の脈略もなくグラウンド・ゼロが背景にアップになったり、ノートン演じるアイリッシュが「キレ」て中国人、ロシア人、韓国人、イタリア人、プエルトリコ人を罵るシーンが続いたりする。
やがて、ノートンは彼らに見守られながら、アメリカの「英雄」であるNYの消防士である父親の運転する車で収監されていく。もうひとつの「あり得た」アメリカを夢想しながら。

悔恨の中ではあっても「あり得た」社会を描くという点では、典型的なミドルクラスが多文化社会のアメリカに「キレ」る1993年の「フォーリング・ダウン」よりは進歩したのかもしれない。現実の「クラッシュ」を経た社会は、もはやM.ダグラスのように「腐った韓国人め」といいながらM16をぶっ放すほど、能天気ではいられない。

映画ついでにまたもや思い出すのは、9.11を予測したといわれる「マーシャル・ロー」だ。この映画が秀逸なのは、テロそのものを主題としたのではなく、荒唐無稽に陥ることを恐れずに「テロ後」の社会を描こうとしたことにある。つまり、テロの恐怖そのものを描き切ることに成功しているのである。
善なるでデンゼル・ワシントンが演じるFBIの捜査官がいう。
「彼らの目的は民主主義そのものの破壊なのだ。お前らがアラブ系を拷問することで彼らの目的は達せられているのだ」

民主主義とセキュリティーのトレードオフだけでなく、人種問題によって国内が分断されることを予測したという点で、この映画の横に出るものはない。

遅ればせながら、9.11の傷を癒しながら、アメリカはこの分断と苦難を再び乗り越えようとしているようにみえる。「クラッシュ」の最後では、それぞれの主人公が人種という呪いから解き離れた時にLAの空に啓示としての雪が舞っていた。