知を総合するとは?

東北大学で、新たに「融合型」の大学院コースを設置するという。
そのうたい文句はこうである。

既存の学術領域の融合により形成された新融合分野の研究から世界に向けて発信される研究成果を基盤に活動を展開しようとするものです。ここでは、複眼的視野で多角的にみる見方が歓迎されるとともに、既存のディシプリンにとらわれない考え方も尊重されます。そして、既存の研究科・教育部の枠にとらわれず、新たなる総合的知を創造しうる世界トップレベルの若手研究者を養成することにあります( http://www.iiare.tohoku.ac.jp/feature.html より)
・ ・・これで「総合知」を醸成して、「新融合分野の世界的トップランナー」を育成するのだそうだ。
※ちなみに「総合知」とは「知や知識の単なる集積ではなく有機的で連携的な深みをもった知の文化的様式」と注釈までしてある。

まあね、若手や大学院生の研究にお金が付くこと自体は悪いことではない。
でもアナクロなボクには違和感がある。

なるほど、ポスト産業社会(・・・といわれてから一体どれだけ時間が過ぎただろうか)の時代において、近代社会とともに発展し拡張してきた大学システム(中世のではなくてね)が今のままでよいわけはない。「総合知」が発揮されなければ、解決できない問題群は山のように出てきた。そういう段階で、東北大学みたいに(良い意味で)保守的な(ときく)大学も、とうとうこういうことをせざるを得ないようになったのか、とある意味感慨深くさえある。いや、東北大学ですらそうなのだから、ほかの大学は推して知るべし、である。

しかし、だからといって「新融合分野」なるものを謳う必要があるのかどうか。
少なくともウェッブで確認する限り、コースは(例によって)「偏りなく万遍なく」各科目を履修すべし、というふうにデザインされているように見受けられる。中にはすでに、沢山のものが「融合」して出来上がっている科目のようなものもある(しかし、そもそも教えるセンセイたちは総合知を獲得している人間ではないのだ)。

そうでなくて、深く狭く、まず入り口を絞り、それから徐々に広い研究対象領域へと転移していくようなデザインにすべきではないのか。それは当然のことだ。確かノーベリストの小柴さんも「若い頃は基礎をきちんと学び、その上で多いに議論しなさい」といっていたではないか。ここにこそ、真髄があると思う。

最近読んだ杉山幸丸著『崖っぷち弱小大学物語』(中公新書ラクレ)。
笑ってしまうようなタイトル(だが笑えない)だが、至極まっとうなことが書いてある。沢山のことをこの本から改めて(知ったのではなく)学んだ。「教育とは愚直に進めるもの」。

ちょっと昔の「国際化」みたいなキーワードだ。国際化は英語を喋れることではないということは、国際社会の現場にいる人間であればあるほど、自明に思っている。

日本の大学、いや日本社会の脆弱性はネットワーキングにあるように思える。ガクシャこそがネットワーキングが得意でなければならない。問題があり、自分の知だけでは解決できない。
そういう場合にこそ、向かいの建物の研究室のドアを叩きにいくのだ。その上で、各自の専門知を総合知へと転化するための「辞書」を作らなければならないのである。世の中には「辞書」に必ず収まりきらない事象がある。そしたら、また研究室に戻り、自分の専門知の中に閉じこもりに行かなければならない。

特にアメリカ系の人文社会科学書には、これでもか、と場合によって1ページにも渡って謝辞が書いてある。その名前も所属も多種多様だ。それはひとつの作法でだから、というのも確かだが、それだけ常にカンカンガクガクやっているということでもある。「だれそれ先生には大変お世話になった、尊敬してます」、という意味の謝辞ではない。

K-1で強いのは、別に飛んだり跳ねたりすることのできるプロレスラー型が強いわけではない。いずれかの種類か、でみれば強弱はあっても、強いのはやはり、自らの格闘技の道で強い人間である。
他方で、K-1選手が束になれば、新日や全日軍団よりも強いだろう。

一番可哀想なのは、こういう華やかな謳い文句に誘われてくる人間だと思う。彼/彼女らは、大学の生き残り競争とは何の関係もないのだから。大学とショービジネスとは違う。一番の教育効果は、ネットワーキング化の必然に迫られる大学の教員側に現れることになるかもしれない。
余り書くと、自分の首を絞めることになるのでやめておくけれども。