マイケル・マンの映画。

最近、整理していたVTRから素粒子ざらざらの、90年にTVXで放映していた「マイアミ・バイス」の録画が沢山出てきた。懐かしいな、と思ってつらつら観ていて、「やはりこれはマイケル・マンの作品だな」、と感じた。

例えば、The Death and the Ladyというエピソード。
これは、ポルノ女優殺人をめぐる完全犯罪という話なのだが、「殺人」を「ポルノ」として「商品化」する「芸術家」を主人公たるソニークロケットが立件することができずに終わる。但し、ラスト・シーンで、ソニーはこの映画監督を「あんたは暴力が、エロティックで、シックで、いいもんだと言うんだな。なら、本当の暴力というのがどんなものか見せてやろうじゃないか」といって、法外であることを承知で本人に暴力を振るう。その前段には、「昔、美人ではないがとても気立てのいい女の子の同級生がいた。しこたま酔った後、仲間たちは彼女のポラロイド写真を取ってロッカールームの張り出した。それを俺は間違っていると感じた。そんな写真はひっぺがすべきだと感じた。でもそうしなかった」というモノローグがある。

マイケル・マンの映画(「マイアミ・バイス」ではプロデューサー)は、様々なルールや道徳が揺らぐ中で、敢えて倫理的であろう、とする主人公が、単なる独りよがりの正義感とすれすれのところで葛藤する様を描くことを得意とする。善や悪ではなく、そこにあるのは極めて実存主義的な闘いであり、あるいは、倫理的たらんとすることが引き起こす矛盾だ。それは「ヒート」から「インサイダー」にいたるまで、そして最新作の「コラテラル」に、とりわけそのラストシーンで色濃く反映されている。ヒロイズムを掲揚しつつも、そのヒロイズムの虚無性を同時に告発し、裁くことを拒否している。

マイケル・マンの映画は確かに「軽い」。でも、そのメッセージは一貫しており「重い」。その混合こそが、彼の映画が90年代に入ってヒットボックスとなった理由だろう。

彼の影響を受けた映画には「地獄の黙示録」、「ファウスト」、「市民ケーン」、「レイジング・ブル」などが挙げられている(「SIGHT」10月号)。どれも、ヒントを与えてくれるものばかりだ。

マイケル・マン監督作:
コラテラル(2004/米)
アリ(2001/米)
インサイダー(1999/米)
ヒート(1996/米)
ラスト・オブ・モヒカン(1992/米)
メイド・イン・L.A.(1989/米)
刑事グラハム 凍りついた欲望(1986/米)
ザ・キープ(1983/米)
ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー(1981/米)