「信頼でつながる社会」

 先に、北海道消費者協会の年次大会の基調講演を依頼され、そこで「信頼でつながる社会~小さな力を持ち寄って」というタイトルで90分ほどお話をさせていただきました。

 もともとは、札幌市西区で仲間とやっている「子ども食堂」についての報道を事務局の方がご覧になって、そうした観点から何か話を、ということでした。

 専門の政治学とどのように話をつなげようかと考えて、日本における再分配、働き方、社会における「信頼」の話と三大噺でつなげてみました。

 事務局の方が会報誌用にと要点をまとめてくれたので、以下に再掲します。

 

注目集める子ども食堂

私はこの4月から札幌市西区で「子ども食堂」を仲間と運営しています。この「子ども食堂」は食事を提供するだけではなく、子どもの居場所づくりや社交性のかん養、当事者意識の育みなど、「小さな社会」をつくっていくことが目的です。形態は様々ですが、「子ども食堂」は現在、全国に320カ所、この3年ほどに10倍以上に増えました。

ただ、「子ども食堂」が増えることは子どもを取り巻く環境が厳しさを増しているということでもあり、決して好ましいことではありません。

2012年の段階で、日本の子どもの貧困率は16・3%、実に6人に1人に登ります。先進国の平均は12%。日本は豊かだった1980年代から同じ程度の貧困率でした。つまり、貧困は景気の問題だけではないということになります。

 

再分配が機能しない日本

問題は、日本では当初所得を再分配すると(簡単にいえば税引き後)、逆に貧困率が高くなり、格差が広がるという逆転現象があり、再分配が機能していません。子どもに対しての再分配も同じで、格差が広がる現象があります。

なぜこうした歪な税制になっているかといえば、法人税所得税の引き下げが続き、それは消費税でまかなっていることがあげられます。税制の累進性が弱まっているのです。

また、日本型の社会保障は、正規雇用の男性の給与を通じて生活が保障されるというしくみですが、正規雇用の男性がリストラや賃下げで生活が揺らぐとセーフティーネットが提供されません。育児が家庭内だけで完結していたので、女性が働くとなると、出生率低下につながります。

さらなる再分配のためには増税も必要ですが、日本は痛税感が高い国。他の国と比べると官僚や国会議員への信頼度が低く、「税金は無駄遣いされる」という思いが強い。さらに「お上は信用ならない」という「垂直的不信」に加え、他人を信用できないという「水平的不信」も日本では実際には高いのです。

高度の不信社会で増税することは難しくなってしまいます。意識調査では「貧困対策は政府の義務ではない。貧しい人は自己責任」と考える人も多く、再配分を拡充することは難しく、貧困の連鎖は止まりません。

 

子どもの意識が日本を変える

政治や政府を盲目的に信頼する必要はありません。ただ、為政者に対する不信が高いのであれば、選挙以外でも政治に参加して、政治をただしていく必要があります。日本は他の先進国と比較して、政治参加の水準は低いまま。政治不信が高く、かつ政治参加も低調なのであれば、それは「共同体のことはその構成員のみなが納得して決める」という民主主義の原則が侵されていることになりかねません。

社会に対して信頼がないということは、社会のことを自分たちの手でより良い場にしていくという手段を自ら放棄しているようなものです。「子ども食堂」のような実践を通じて、子どもたちが小さな社会をつくり、当事者意識を育むこと。大人になって大きな社会をわがこととしてとらえられるように育っていけば、日本の社会は変えられると信じています。

 

 (了)

「英EU離脱とポピュリズム」(インタビュー記事)

(本エントリーは2016年7月9日付『公明新聞』「土曜特集」に掲載されたインタビュー記事を編集部の了解を得て転載したものです)

 【リード文】

英国の国民投票欧州連合(EU)離脱支持が多数を占め、国内外に混乱が生じている問題に対し、ポピュリズム大衆迎合主義)が背景にあるという指摘がある。北海道大学の吉田徹教授に聞いた。

 【国民投票 社会の分断露呈】

国民投票の結果をめぐって英国内の混乱は続いている。

吉田徹 今回の国民投票はもともと、英国の与党・保守党内で求心力を欠いていたキャメロン首相が、総選挙前に反EU派の台頭を抑え込むための公約をきっかけにしていた。国民投票実施という圧力を用いてEUから譲歩を引き出した上で、「残留」か「離脱」かを問う国民投票残留を勝ち取って保守党政権を安定軌道に乗せるという自作自演は、策略としては練られていたかもしれない。ただ、第65代英国首相を務めたハロルド・マクミランの「政治においては予期せぬ出来事、事件が一番怖い」という有名な言葉にあるように、難民やテロなどの予期せぬ事件を見誤ったため、国内の反EU、反グローバル勢力が炊きつけた〝あらぶる民意〟をなだめきれなかった。

 ―英保守党がそこまで追い詰められた背景は。

吉田 キャメロン首相が国民投票を決めた背景には、保守党が第三極の独立党などに支持層を切り崩される危機感があった。英国は長きにわたり、労働党と保守党の二大政党制が続いてきたが、70年代以降、少しずつ力を失っている。60年代、二大政党の得票率は90%だったが、2000年代に入って70%を切るようになり、最近は安定過半数を獲得できない状況になっている。二〇一〇年の総選挙では何れの政党も安定過半数を得られない「ハングパーラメント」を経験した。

いま英国社会は大きな地殻変動に見舞われている。出口調査では、大都市の周辺部や農村部、あるいは20世紀後半に造船業や鉄鋼業で栄華を誇った地域が大挙して離脱に投票したという結果が出ている。格差が大きく所得の低い地域や成長の恩恵に預かれていない地域、いわば〝グローバル化の敗者〟が離脱を支持した。

逆に、所得が高く、好景気の地域はEU残留を支持している。今回の国民投票によって今まで覆い尽くされていた英国内の分断線が露わになり、傷は思った以上に深いことが白日のもとに晒された。

  【グローバル化進む 雇用や貧困悪化】

―各国を見ても現状の政治に対する不満をあおる主張に支持が集まっている。

吉田 世界中で翻訳され、日本でも話題となったトマ・ピケティの『21世紀の資本』は、一九七〇年代以降になって、格差が拡大して19世紀型の資本主義に回帰しつつあると指摘した。戦前の反省と冷戦があって、二〇世紀後半は国家がグローバル資本主義を抑制的なものにしていた。この歴史的な偶然でリベラルデモクラシー体制が安定して、その下で分厚い中間層が生み出された。

しかし、冷戦が終わってグローバル化が進んだため、この分厚い中間層は逆にやせ細っていっている。これにリーマンショックと続く経済危機が追い討ちをかけた。欧州各国は緊縮財政を余儀なくされ、労働条件や生活環境が悪化し、没落に怯える中間層が政治的な急進主義を呼び込んでいる。

グローバル化と格差拡大を統御できない既成政党は右であれ、左であれ批判され、置き去りにされた民意の空白が生じる。そこをポピュリズム勢力が埋めているのが直近の状況だ。

 ―こうした現状に対し、既存政党は有効な打開策を打てていません。

吉田 多くの国の国政選挙では、既成政党が一致団結すればポピュリズム勢力や極右勢力を押さえ込める状況にある。ただ、裏を返せばこれは政党同士の健全な競争が成り立たず、既成政党は民意を無視して政治を進めているというポピュリズム政治家の言質を正当化してしまうジレンマに陥ることになる。このポピュリズムの挑戦に対して反駁できるだけの経済社会政策上の実績を残せるかに民主主義の将来はかかっている。 

現代は冷戦期のような明確な対立軸はなくなりつつある。だから各国を見ても選挙のたびごとに争点がめまぐるしく入れ替わり、国民は一体、何が問われているか分からない。その一方では、労働環境の悪化や貧困の進展など、目前の課題には改善の兆しがみえない。今の時代の代議制民主主義を時間軸で見ると、特定政権が政策課題に取り組むことのできる時間があまりに短い。腰をすえて課題解決を議論するための長期的な時間をいかに確保できるかが重要な局面になっているのではないか。

 【国家主家 過度な落胆と期待】

―政治家は選挙前になれば有権者に耳障りの良い政策を訴えがちです。

吉田 選挙で決められるものと決められないもの、決めてよいものと決めてはいけないものを分けて、有権者と政治家との間のコンセンサス作りを進めるべきだろう。

どのくらいの予算を投入すればどの程度の効果が出るかなど、政策のデザインをめぐる競争はあるべきだ。しかし、めざす国の方向性については各政党間でおおよそのコンセンサスがあることが、結果として長期的な政策課題の解決に寄与していく。

選挙前の公約でバラ色の政策を掲げ、結果として国民の期待を裏切る結果に終われば、残るのは政治不信だけだ。これがまさに、政治不信につけ込むポピュリズムを招く要因になりかねない。

 ―英国の国民投票では、「離脱」への投票を後悔する人も出ており、一時の感情に左右される民意はあてにならないという指摘もある。  

吉田 自分たちの共同体のことは自分たちで決めるというのが近代民主主義の原理原則。政党政治に馴染まない争点に限っては、国民投票も数ある意思決定の方法として認められるべきだろう。

しかし、国民投票だけに依存すれば、これで国際連盟からの脱退を決めたナチスドイツ時代のようなファシズムにもなりかねない。重要なのは、民意の表出の仕組みや回路、政治参加の在り方を重層的に確保していくこと。社会学者ダニエル・ベルは「現代の政府は個人の大きな問題を解決するには小さく、個人の小さな問題を解決するには大きくなりすぎた」と指摘した。このグローバル化と個人化の間で空洞化しつつある民主主義の隙間を埋めるための回路をこれまで以上に作っていかなければならない。

戦後の例外的な平等で豊かな社会は、二度の世界大戦の結果としてもたらされたということを忘れてはいけない。私たちに今問われているのは、戦争をしないままに、平等な社会をいかに自分たちの手でつくりなおすことができるかどうかだ。

 ―今回の国民投票から何を学べるか。

吉田 このまま英国がEUから離脱してもGDP(国内総生産)の約1割を金融で稼いでいる英国経済は変わらなければ、国連国際通貨基金IMF)から脱退したわけでもない。G7(主要7カ国)の一国としての責任もなくならない。グローバルな時代に国家主権は相対的なものとならざるを得ない。もっとも主権への過度の落胆と期待が交差して、「一国だけでは何もできない」という議論と、「主権を取り戻せば何でも可能だ」という両極端な議論に陥っている。

いまの政治に求められるのは、この現実と理想の隙間を埋めるための努力だ。ビスマルクの言葉を借りれば「政治は可能性の術」。いまの状況で何が可能でそうでないか、丁寧な議論を心がけなければならない。

日本の社会も大きく変わっている。人口減や貧困問題、エネルギーや環境問題など、世代と国境をまたがる問題が山積している。イギリスを揺るがした移民問題についても、これから減ることはない日本の外国人数をみても、いまから議論をしておくことが肝心だ。

 

 

民主主義とは「フィクション」である。

  「民主主義ってなんだ?」と問われれば、それはひとつの「フィクション(=擬制)」としかいいようがありません。「フィクション」といって難しければ、「~べきであることが想定されている」ということです。

 どういうことか、日本国憲法の前文を通じて確認してみましょう。

 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

  ここでいわれているのは、国の政治は、国民の権威に基づいた権力を代表者たちが用いて、その結果として生まれる福利は国民が享受すべきである、という循環です。

 これは、国民(=主権者)は自らの権利を代表者(政治家)に一時的に預け、自分たちの代わりに働いてもらうというのが民主主義、もっと正確にいえば、「代議制民主主義」や「代表制民主主義」と呼ばれる政治の基本形態でもあります。

 ここでは、共同体(=国)のことは、その構成員(=主権者)で決めて、結果的に決まったことは共同体の構成員の全員が従うことになることが想定されています。でも、それは実際には多分にフィクショナルな想定です。

欠陥だらけの代議制民主主義

 考えてみましょう。代議制民主主義のスタートは、有権者たちが自分たちの代表を選ぶところから始まるとします。そうでないと代議制民主主義はそもそも起動しません。そして、この代表を選ぶ機会こそ、選挙ということになります。

 ただ、この選挙で選ぶこと自体、容易ではありません。なぜなら、基本的に代表者は代表することを仕事としますから、選んでもらうことなしには、自分たちの義務が成し遂げられません。だから何としてでも当選したいと思う。そうすると、なるべく有権者に票を入れてもらえそうなことしか約束しません。もっといって、「国民の福利」実現のために働くわけですから、有権者がこういうことを実現してほしいと願うようなことを言うのが当然です(これが『選挙公約』、つまり選ばれたらこう働きます、という約束事の束になります)。

 ただ、結果として有権者が望んでいる、耳あたりのよいことしか言わないようになります。もっと問題なのは、どの政治家も真剣に選挙で票を投じてもらおうとすれば、いうことが似たり寄ったりになってくることです。国民の「福利」なるものはAKB48のメンバーほどの多様性には耐えられません。

 似たり寄ったりだと、では何を基準にしてそもそも選んだらよいかわからなくなります。各党や候補者の選挙公約を見てみましょう。「安心」とか「安全」とか、「強い」とか「元気な」とか、そこに並んでいるのはポジティブな形容詞ばかりです。あるいは、同じことを違うように表現した文言でしかありません。そこで政策で選べといわれても、選びようがありません。大勢と違う、ちょっと目を引くような公約を掲げている人たちもいるかもしれませんが、それはそもそも実現できそうにないことばかりです。つまり、「信託」しようにも、なぜ、どのように「信託」したらよいか判然としない。でも、それは国民の福利を実現するのが政治家の任務なので、致し方ありません。これが選挙から成り立つ現代の代議制民主主義の第一の欠陥です。

 第二の欠陥は、やっとこさのことで選んだこの代表者たちが、自分たちの思う通りに働いてくれないこともあるということです。その理由はいろいろです。代表者も人間ですから、心変わりすることもあるでしょうし、自分たちの信念も持っています。「喉元過ぎれば」ではありませんが、当選した時の約束を反故にして、後は自由にやらしてもらいます、という政治家もいるかもしれません(もっといえば、当選後の自由度は約束が曖昧であればあるほど、高まることになります)。あるいは、国会にはそもそも数百人単位で代表者たちが集い、その過半数がなければ法律にならないわけですから、そこで仲間作りに失敗して、自分が約束したことを実現できないということもあります。国政で用いられる「権力」がそもそも間違ったように使われてしまうかもしれない、あるいは、そもそも使われないかもしれない。これが代議制民主主義の第二の欠陥です。

 欠陥はまだあります。「福利は国民が享受する」と書いてあっても、生じるのは福利だけではなく、損害もあるでしょう。そもそも選挙の結果がどのような福利をもたらしたのか、それが本当に選挙の結果と直に関係するのか、確実なことはいえません。政策や法律が成り立つのには、国会だけでなく、官僚機構や業界や市民の協力や理解が必要です。しかも、参議院選挙のように、3年に一回の半数の定期選挙で、政権選択に直結しない選挙では、なおさらのこと、判然としません。選挙と、その結果もたらされる福利は必ずしも一致しないというのが、代議制民主主義の第三の欠陥です。

代議制民主主義の欠陥はもっとありますが、ここら辺りで止めておきます。

それでも「人類普遍の原理」である理由

 共同体のことをみなで決めて、その結果にはみなで従うという、代議制民主主義の想定は、実際には機能しないであろう、フィクションにしか過ぎないことは、少し考えればわかることです。みんなで決めるといっても、誰がどこで何を決めたのか、明らかではないからです。だから代議制民主主義は、今も昔も、どこの国でも、批判と幻滅の対象となってきました。

それにも係らず、先の日本国憲法前文には、続けてこう書かれています。

「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」

 ここでは、代議制民主主義はフィクションであるにも係らず、「人類普遍の原理」だと謳われています。実は、代議制民主主義は「フィクションなのに」ではなく、「フィクションだからこそ」、人類普遍の原理なのです。

 言葉遊びのようですが、英語の「フィクション(fiction)」は、もともとラテン語で「形作る(fictio)」という意味から派生してきた言葉です。ちなみに、「フィクション」の反対は「ファクト(fact)」、すなわち「事実」のことです。フィクションとファクトを分けるものは何でしょうか。それは「ファクト」がありのままのものであるのに対して、「フィクション」は、創り上げることができるものであるということです。

 代議制民主主義は欠陥だらけですが、それを修正するだけの余地を残すことを可能にしていることが、人類普遍の原理としての地位を与えられている理由かもしれません。

 選挙で、政治家や政党が選択しづらいとか、曖昧な文言しか並べないのであれば、それを問いただす権利を持っているのは、「権威」の源泉たる主権者です。選挙時の約束が果たされないとしてなぜそうなのか説明を求めたり、次の選挙で票を入れないということで罰することを可能にしています。選挙で自分の求めることが可能にならなかったのであれば、選挙以外の方法で政策実現のために運動することも可能です。

 代議制民主主義は「フィクション」であるがゆえに、様々なことを予め決めないでおくような、「遊び」の部分があります。もし代議制民主主義が「ファクト」であれば、そこに有権者が介在できる「遊び」は不要で、「事実」のみが重みを持つ世界であるということになります。そうではなく「フィクション」の世界は、積極性や創造性、もっといえば、この世を善くしていくという可能性を常に残し続けていくことになります。「愛」というフィクションと同じで、それはとても曖昧で不確かなものであるかもしれないけれども、それをいかに実現し、実体のものとしていくかは、人の行動力や創造力にかかっているのです。

 民主主義がフィクションである限り、それを理解したり、運用したりするのはいうほど簡単なことではありません。これまでみてきた具体例のように、代議制民主主義の持つ高度にフィクショナルな正確を「欠陥」とみなすか、「可能性」とみなすかも、人によって違うでしょう。しかし、「共同体のことはみんなで決めてみんなで従う」というフィクションから逃れるのは至難の業です。

 だから「ファクト」の重みに耐えかねて、この世をどうにかして変えていきたいという人のために民主主義は「フィクション」であり続けるのです。それが体得できた時、民主主義の欠陥は可能性へと変わることになり、引いては個々人の「福利」は増していくことになります。

(2016年6月13日)

 

 ※この文章は「ポリタス」に寄稿を予定していたものですが、これを別バージョンとして、元バージョンを本ブログで公開しました。

 

 

「私の『イチオシ』収穫本」

ほぼ2か月に1回、『週刊ダイヤモンド』の書評コーナー「私の『イチオシ』収穫本」の担当がまわってきます。

佐藤優氏の3冊短評コーナーと書店員が紹介する書評コーナーに挟まれて、下欄には過去の「名作」を紹介するコラムもあり、本紹介については中々に充実した雑誌だと思います。他の評者は玉井克哉氏、吉崎達彦氏、河野龍太郎氏など計8名、経済・経営だけに限られない形で色々な本が紹介されています。

 早いもので、もう1年半ほど、計11冊の本(次回に取り上げるものを入れれば計12冊)を紹介してきました。約1000字の紹介なので、突っ込んだ書評はできないのですが、書評をする上で何点か自分なりの約束事のようなものを設けています。

 

1.基本的には「けなさない」
「書評というのは7割は褒めるものだ」という発言に、学界のある先輩は「いや9割褒めて1割けなすんだ」と返していました。私はそれ以上に、書評というのは(研究レビューでない限り)基本的には褒める、もっといって「良書」を紹介することにあると思いますから、自信を持って進められるものしか取り上げないことにしています。けなす位だったら、最初から取り上げない方がいいということです。もちろん、内容はいまひとつに感じられても、その本が公刊されることの意義があるというのはあり得ますから、そうしたものも視野に入ってきます。

 

2.基本的には「訳書」
出版不況と言われて久しいですが、それゆえに、書籍の発行点数は増える一方で、『出版指標年表』によると、近年では年間8万冊が発行されているとのこと。これは1970年代と比べて、倍以上の点数です。


「私の『イチオシ』収穫本」のコーナーは、多くの新聞書評などと違って、自分でを選ぶこと、それもだいたい過去3か月以内に発刊されたものを前提とすると担当編集者から言われています(ちなみ新書も対象外とのこと)。8万冊全てがが書店に並ぶわけではありませんが、札幌や東京での大型書店の新刊コーナーを全部回って、一冊を選ぶというのは至難の業です。

そこで私が担当する本は、基本的に「訳書」、それも専門の近接分野(人文社会科学のもの)という限定をかけることにしました。

訳書にするというのは、日本の翻訳文化を少しでも応援したいという意味もあります。自分が海外事情の紹介を生業のひとつにしているということもありますが、日本人の頭の中の半分は輸入ものです。とりわけ、人文社会科学に関わる言葉の多くは日本語に翻訳されてきたものです。この世界をいかに豊穣なものにしておくか、つまりは訳書を出版することができるかどうかは、これからの日本の知的体力を維持していくためにも必要ではないかと考えるためです。

忙しくなって、洋書を読む時間が以前のように中々確保できないのですが、そういう時に母国語で海外のものが読めるというのは、とてつもない特権だと感じることがあります。これだけ翻訳文化が発達している国は世界でも珍しく、それは守っていかなければならないものだと思っています。

 

さて、以下では過去に紹介してきた本を、新しい順から、改めて簡単に紹介していきたいと思います。 

時間かせぎの資本主義――いつまで危機を先送りできるか

時間かせぎの資本主義――いつまで危機を先送りできるか

 

 「リーマンショック以降も続く現代資本主義の"因果的危機" シュトレーク『時間かせぎの資本主義』」『週刊ダイヤモンド』2016年5月21日号

シュトレークは、政治学者であれば多くの学者が知っているであろう、(西)ドイツ生まれのアメリカで長く教鞭をとってきた政治経済学(もっと正確にいえば経済社会学)を専門とする研究者です。中でも新制度論的な分析と現代資本主義分析をつなぎあわせた所に、その特徴があるといえます。その彼が、アドルノ賞受賞記念の講義をしたものをベースにした本がこれです。1970年代の経済危機から紐解いて、その後の80年代の新自由主義、90年代の「民営化されたケインズ主義」、そしてリーマンショックという3つの経済危機に一貫したものをみている点は読みごたえがあります。その上で、ユーロは解体されるべき、などとする点は、意見が分かれるかもしれません。

 

プロヴァンスの村の終焉(上)

プロヴァンスの村の終焉(上)

  • 作者: ジャン=ピエール・ルゴフ,伊藤直
  • 出版社/メーカー: 青灯社
  • 発売日: 2015/11/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 

プロヴァンスの村の終焉(下)

プロヴァンスの村の終焉(下)

  • 作者: ジャン=ピエール・ルゴフ,伊藤直
  • 出版社/メーカー: 青灯社(e託)
  • 発売日: 2015/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

「ルゴフ『プロヴァンスの村の終焉』 南仏の”楽園”を題材に描き出す現代化と共同体が抱える危機」『週刊ダイヤモンド』2016年3月19日号

「南仏プロヴァンス」というと、ピーター・メイルの本の影響もあって、どこか楽園的で底抜けに明るい土地を思い浮かべるかもしれません。ただ、実際に長期に定点観測してみると、近代化を余儀なくされて、よそ者と昔からの居住人との軋轢も生じ、ますます地域の独自性、もっといって、独自性がますます何かが解らなくなる、という長年の経緯があることがわかる、ということを社会学者が説き起こしています。地域おこしをしようとして、ますます住民から乖離していく、なんて現象は日本でもみられると思いますが、この本の優れているのは、副題の「フランスのある歴史」とあるように、地域共同体のミクロな話が、実際には国全体のマクロな話とパラレルな関係になっていることにあります。これだけの長編を明晰な日本語訳にした訳者の労も多かったと思いますが、プロヴァンスに行かれる際には、是非旅のお供に。

 

揺れる大欧州――未来への変革の時

揺れる大欧州――未来への変革の時

 

 「現代社会学の泰斗が表した”欧州”の将来を見据える著A.ギデンズ『揺れる大欧州』」『週刊ダイヤモンド』2016年1月23日号

世界的に社会学界をリードしてきたギデンズの時事評論集です。トピックは、EUからエネルギー政策から、移民問題、安全保障政策と多岐にわたっていますが、今のヨーロッパが抱える問題を手際よくまとめています。データを重用する所はギデンズならではの部分もありますが、それはそれで便利です。

 

緊縮策という病:「危険な思想」の歴史

緊縮策という病:「危険な思想」の歴史

 

 「『緊縮策という病』"緊縮策"という思想を縦横無尽に読み解く考察の書」『週刊ダイヤモンド』2015年11月21日号

日本にいると余り実感しないかもしれませんが、今の欧州は(ドイツを除けば)すさまじい緊縮策をやっています。それが様々な政治的・社会的なラディカリズムの土壌ともなっているように見受けられますが、こうした緊縮政策の欧米での違いと、緊縮策という経済思想がどこから生まれてきて、それがどのように実践されていっているのかということを20世紀史として解説したのがこの本です。訳がやや硬いので読み易いとはいえませんが、時代限定的で文脈依存的な緊縮策がなぜかくも影響力を持つようになったのかを知るには必読の本です。

 

ちなみに、本の内容についてブライス自身による、ものすごくわかりやすい説明がyoutubeにありました。

www.youtube.com

 

なお、書評でも書きましたが、ブライスはいわゆる「アイディアの政治」の中では必ず言及される研究者で、ケインズ主義政策を扱った主著『大転換(the great transformations)』の翻訳も待ち遠しくあります。

Great Transformations: Economic Ideas and Institutional Change in the Twentieth Century

Great Transformations: Economic Ideas and Institutional Change in the Twentieth Century

 

 

 

独裁者は30日で生まれた ヒトラー政権誕生の真相

独裁者は30日で生まれた ヒトラー政権誕生の真相

 

『独裁者は30日で生まれたヒトラー政権誕生の真相』ナチ政権誕生の分岐点を詳述」『週刊ダイヤモンド』2015年9月26日号

こちらは、ナチス研究で有名なターナーJr.による、比較的以前に公刊されいた本の訳出です。ナチス政権は1933年1月に誕生するわけですが、それに至る1か月間を、非常に密度の濃い、まるで演劇をみるかのような形で、展開する歴史書です。ナチスが生まれたのは権力の奪取よりも、その前提となる権力の真空があったとするのが一般的ですが、その真空がなぜ生まれることになったのか、パーペンやヒンデンブルグ、シュライヒャーといった「名脇役」たちともに、詳述されています。挿入されている彼らの挿絵(写真)もあって、手に汗握る歴史書です。

 

 

国際協調の先駆者たち:理想と現実の二〇〇年

国際協調の先駆者たち:理想と現実の二〇〇年

 

『国際協調の先駆者たち』問題解決のための精神である”国際協調”の本質を問い直す」『週刊ダイヤモンド』2015年7月20日号

この間、『暗黒の大陸:ヨーロッパの20世紀』と『国連と帝国:世界秩序をめぐる攻防の20世紀』が翻訳されたマゾワーの本です。国境を越えた問題が増えれば増えるほど、国際協調が逆説的に必要なるということを、数多くの事例から、まるで同時代史を書いているかのような密度で、書いています。面白いのは、とかく国連やら国際機関といった公式的組織に注目が行きそうな領域にあって、数々のプライベートアクターを紹介していることです。考えてみれば、歴史は昔からプライベートな主体の方が国際協調に熱心であったという事実に気付かされます。彼のほかのものもそうですが、読んで損は絶対しない一冊です。

  

失われた夜の歴史

失われた夜の歴史

 

 「『失われた夜の歴史』「夜が暗闇だった時代」人々の生活はどうだったか」『週刊ダイヤモンド』2015年5月30日号

 たまたま手にとった本でしたが、読み進めるうちに引きづり込まれました。16世紀から産業革命までのイングランドを中心とした、「夜」に焦点をあてた民衆史です。どのように人々が「闇」を知覚したのか、利用したのか、生きたのか、ということを日記などを通じてビビッドに再現しています。「明かり」が一般的になる前には、夜になればみなが平等だったという世界を垣間見ることができます。他人の夜の生活をナイトビジョンをつけてみているような快感もあります。こういう本こそ、もっと翻訳をされて欲しいと思います。 

 

世界はシステムで動く ―― いま起きていることの本質をつかむ考え方

世界はシステムで動く ―― いま起きていることの本質をつかむ考え方

 

 「『世界はシステムで動く』 システム思考についての”原論”」『週刊ダイヤモンド』15年3月28日号

「ローマクラブ」の報告書を書いたことでも知られるドネラ・メドウズの本です。システム思考とは、全体を構成する各要素の連関を認識することということになりますが、これを人材育成や学習メソッドに応用するコンサルタント会社の方々が訳出しています。そう書くと、ビジネス経営に偏った本か、と思われがちですが、メドウズの視点は環境問題含めて、「どうしようもなくつながってしまっている私たち」の社会を透視するのに、とても有益です。マスターするのはそれほど簡単なことではないかもしれませんが、経済にはもちろんのこと、政治にも応用できる考えです。

 

なぜ大国は衰退するのか ―古代ローマから現代まで

なぜ大国は衰退するのか ―古代ローマから現代まで

 

「『なぜ大国は衰退するのか』「大国の興亡」の仮説に反駁「制度的な停滞」の謎に迫る」『週刊ダイヤモンド』15年1月31日号 

著書の1人のハバードは、先のブライスの本で批判されていますが、このドキュメンタリー映画でも、利益相反があるのでは、とインタビューされています。本の内容は、簡単にいうとい財政赤字と民主主義圧力が大国の衰退の決め手となった、ということを古代ローマから現代の日本にまでをケースに論じるものです。そこまで色々と論じると、余りにも変数が多すぎて何が何だかという気もしますが、ケースの多さでそれをカバーしています。このように機械的に歴史を処理してしまうところはアメリカの経済学者ならではという所もありますが、ハバードはG.Wブッシュ政権で大統領経済諮問会議の議長でもありました。このレベルの経済学者が実務に携わっている点は、さすが、といった感じでしょうか。

 

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

 

 「書評『反逆の神話』――”カンターカルチャー”の矛盾を解体・批判する好著」『週刊ダイヤモンド』2014年11月29日号

これまた、主著のほとんどが翻訳されたジョセフ・ヒースの代表作の一冊です。彼の『啓蒙思想2.0』(NTT出版)は、昨年度にゼミで読みましたが、好評でした。内容はといえば、タイトルにある通り、1960年代のカウンターカルチャーが消費資本主義の論理にいかにすり替わっていったのかということを、自虐的かつ批判的に紹介している本です。ヒースの上の世代の「政治的ごりごりだけどいい加減感」への嫌悪がこの本を書かせたのだと思いますが、日本でも、「個人」を軸に、いわゆるリベラル左翼とネオリベ保守が結びついてしまうような構造とも親和的です。そうした自己省察があるという意味で、知性を感じさせる一冊です。ヒースの名前は日本でももっと知られてもいいかもしれません。

 

さて、次回の本は、何にしましょうか。

【書評】ミシェル・ウエルベック著『服従』の読み方 。

 

服従

服従

 

 

この本は二度に渡ってパリを襲った同時テロとともに人々の記憶に長く残るのだろう。時は2022年のフランス、圧倒的な人気を誇る極右政党の大統領候補を落選させるために、既存政党はムスリム同砲団(エジプト・ムルシー大統領も属していたスンニ派宗教組織)の候補者を担ぐ。欧州最大のムスリム・コミュニティを持つフランスへの産油国の支援もあって同胞団は勢いづく。かくして世俗の極右vs宗教教原理主義が政治の対立軸となり、ムスリム同胞団のモアメド・ベン・アッベスが大統領に選出、シャリア(イスラム法)のもとで統治が行われていく――これらの政治的事件が、放蕩無頼を尽くす文学教授フランソワの視線で語られるというのが本筋だ。

 

2015年1月7日の『シャルリ・エブド』襲撃事件当日に発刊されたという話題性やその後の国民戦線の伸張もあって、作品はベストセラーになった。ただし、日本のみならずフランスでもイスラム原理主義の脅威を喧伝する小説と解されたが、それは皮相な見方である。ゴングール賞作家の理知的な作家ウエルベックのメッセージは、もっと重層的でアイロニカルなものだ。

 

ウエルベックは、出世作『素粒子』から一貫して、解放された自由な人間の孤独を偽悪的にまで描いてきた。彼は、経済と性という二つの領域での解放が、社会の物質的・精神的格差をますます広げていっているという。ポスト現代社会では禁忌や抑圧が際限なく取り除かれていくが、それゆえ人は生きる意味も目的も与えられず、内的な空虚を肥大化させていく。

 

実際、主人公は職業的地位や性生活でも満たされた生活を送るものの、欠落を前提としたひりひりとした個人主義的な社会で自分の欲望を持て余す。「吐き気を催すような解体がここまで進んでしまった西欧の社会は、自分で自分を救う状態にはもうないのだ」(266頁)。対するイスラムが支配する世界では、道徳もお金も救いも用意されている。ムスリム同砲団の政権が発足してから、治安は改善され、景気はよくなり、それまでの恐れが大げさなものだったことも明らかにされる。

 

このように、ウエルベックの目線はイスラム原理主義にではなく、もはや人間精神を救済できない現代社会に投げかけられているのだが、ここで浮上するのが信仰の問題である。クライマックスでは、文学全集の編纂とイスラム教への改宗という条件をあっさりと快諾して、主人公は大学への復職を果たす。その直前に、彼はカトリック修道院で修行し、信仰が何の救いもならないことを悟ったからだ。

 

それというのも、ポスト現代社会では、信仰が個人の生を操舵するものではなく、個人が操る対象でもあるからだ。主人公は、自らの出世と欲望(一夫多妻制!)のために、なんなくムスリムになる。信仰とは極めて個人的なものであるゆえ現代になって強度を増していっているという、哲学・社会学での「ポスト世俗化」の議論とも、このウエルベックの小説は響き会う。

 

主人公の専門が、エミール・ゾラなどと同様に自然主義文学の系譜に位置づけられ、その後突如として神秘主義へと接近した19世紀の文学者ユイスマンスなのも示唆的だ。「ユイスマンスはまったく他の人間と同じなのだ。つまり自分の死には無関心で、本当の関心事、本当の心配事は、身体的な苦悩から逃げられるかどうか、ということだった」(271頁)。

 

小説は「ぼくは何も後悔しないだろう」という主人公の独白で締めくくられる。イスラム教を反射鏡のようにして、自由社会における個人の満たされなさを暴いた上で、最終的にその空虚さに自発的に「服従」することで人間を諦めないこと――ヒューマニズムの否定と肯定の弁証こそが、『服従』を比類のない傑作としているのだ。

 

           (月刊『公明』2016年5月号の書評より転載しました)