安保法制反対デモを政治学でとりあえずみてみる。

 ここ最近、立て続けにオーディエンスの多くが大学生で、彼ら/彼女らの前で話すという機会がありました。

 話す内容そのものとは直接に関係ないのですが、時節柄、その関心は若者と政治に集まっていて、中でも「デモ」について関心が高いということが伺えました。

 そこで、一般的に政治学は「デモ」という現象をどう捉えてきたのかという点について、以下ではごく教科書的に3つ+αの立論紹介しておきたいと思います。

 少なくとも、単に不満や政治的イデオロギーに捉われた人々が自己の意思を表明するだけのものとしてデモを捉えるといった幼稚な認識はなくなりました。

 ただ、もしここでの説明が正しいのだとすれば、「デモ」とは実際にはデモそのものというより、デモをどう解釈するかという、私たちそのものが問われているものだということが良く解るかと思います。

 

議論は19世紀からあった

 民衆が街頭に出て、時々の状況に反対の意や賛成の意を示す「デモ(示威)」は古今東西、昔からありました。こうした「集合行為」(当時そういう言葉は編み出されていませんでしたが)について、最も早くに観察・分析としたものとして有名なのは、フランスの社会心理学者(というよりも評論家といった方が正確ですが)ギュスターヴ・ル=ボンが1895年に著した『群集心理』です。

 19世紀後半は産業革命が一巡し、都市政治が発達し、20世紀前半の民主化の定着に向けた揺籃期であり、そのような時代に新しく社会に誕生した根無し草の「群衆」の存在が、社会的な問題となり、学問上の関心も呼ぶことになりました(こうした時代背景については、杉田敦「ル・ボン――群衆の登場」杉田敦編『国家と社会』岩波書店に詳しくあります)。 

国家と社会 (岩波講座 政治哲学 第4巻)

国家と社会 (岩波講座 政治哲学 第4巻)

 

 

「資源動員論」

 20世紀後半になって民主化を達成した先進諸国では、社会運動といえば、労働運動や左派政党の運動の代名詞のようになっていきました。そこで出て来たのが「資源動員論」というデモについての解釈です。

 これは読んで文字のごとく、デモ参加者やプロテスターを「資源」として捉えて、何らかの政治的目的を達成するために動員することからデモが生じるとする解釈です。ここでいう資源とは、お金やヒト、ネットワークなど有形無形のものがありますが、皆で達成すべき目標があって、それを達成するためにデモが行われる、といった合目的的な視点から、デモを説明しようとするものです(代表的な論者としては革命分析にも応用したチャールズ・ティリーや政党との結びつきを重視したコルピなどがいます)。

 デモ論の分類もしている小熊英二『社会を変えるには』(講談社学術新書)での言葉を借りれば「資源動員論」とは「不満があるから暴動がおきるといった非合理的な行動」ではなくそれが「合理的な行動だと唱えるもの」だとし、そのために「資源を動員し、成功に導く戦略をたてること」というものになります。

 

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)

 

 

 先の安保法制反対のデモをみて、「あれには民青が背後にいる」とか「特定の政党が動かしている」とか、そういった類の指摘がありましたが、そうした目線はこの「始原動員論」によって解説されてきたデモのイメージをそのまま投影してしまっているからにほかありません。

 例えばちょっと前に産経新聞デモ参加者を調査したものの記事を出したところ、当然のように、色々な批判を受けましたが、これも、産経新聞がもはや通用しない時代遅れの立場に立って、デモを解釈しようとしたからにほかなりません。

 

「政治的機会構造論」

 それまで基本的に人々の心的側面に焦点を当ててデモを説明しようとする流れ(ル=ボンの群衆は「感染」することによって膨れ上がるといった言葉に象徴的です)に対してはこの「資源動員論」といった、より客観的かつ構造的な視点が導入されることになりました。中では「政治的機会構造論(POS)」という、もう一つの有力な解釈の枠組みが出てきました。

 これは、どんなに人々に力があろうがなかろうが、不満を持っていようがいまいが、「政治的機会」が訪れなければ社会運動も起きないという解釈をとります。つまり、統治の緩みとか政治エリートの対立とか、抗議する側が「勝てる」と認識することなど、様々な「機会」を作るものがあって、それらの条件が合致した時に、社会運動は起きるといいます。

 わかりやすく言い換えると、成功した社会運動があるとして、それはかくかくしかじかの条件が揃っていたから、生起し、運動としての目標が達成できたのだ、と説明するわけです。代表的な論者としては、シドニー・タローやマッカダムなどのアメリカの政治社会学者がいます。

 やはり安保法制反対のデモについていえば「あんなことをやってもどうせ意味がない」とか「#絶対に止める、なんて本当か」といったリアクションは、デモが成功するか否かということを基準にした見方であり、この政治的機会構造論に影響を強く受けた見方ということになります。

 

その後の議論

 この時期は、アメリカでもそうでしたが、とりわけ西ヨーロッパでは「68年革命」が起き、また各地でのフェミニズム・マイノリティによるデモや社会運動が相次いだことから、社会運動についての大きな認識の変化がありました。その結果生まれていったのが「新しい社会運動論」というものです。ここではまた、一旦は離れた人々の心的な傾向を含める形で解釈がなされるようになったことも特徴となります。

 この時に必ず言及されるのは、アラン・トゥレーヌとアルベルト・メルッチという2人の社会学者です。トゥレーヌは、ポスト産業社会にあって社会運動は階級を基盤にしたものではあり得ず、生活世界や市民社会を浸食する「システム」への抵抗運動となり、組織ではなく個人が、経済的利害ではなくアイデンティティが核となって展開していっている、と診断しました。社会における争点が多元化すればするほど、社会運動も細かでアドホックなものになっていく、ということです。 

ポスト社会主義

ポスト社会主義

 

   ほぼ同時代人のメルッチは、こうしたトゥレーヌの時代認識を共有しつつも、現代の社会運動はもっと流動的で予測不可能なものになっている、としました。デモを含む社会運動は、自由な個人によって率先されるが(『個人で考えてください』というSEALDsの奥田愛基氏の発言にも通じます)、それは予め固定的な目標によって導かれているものではなく、参加者同士の新たな関係性やアイデンティティの構築を含むゆえに、運動の目的や構成のされ方が常に再定義されることになる、ということです。

 個人化(『個人主義化』ではありません)は現代社会の大きな特徴のひとつです。ちょうど、トップダウンで計画されていたテロリズムが、グローバル・ジハードのように、より自発的かつ分散的なものになっていったようなイメージに重なるかもしれませんが、こうした個人化された個人がなぜ集合行為をするという説明をする時に、メルッチの解釈は妥当なものといえるかもしれません。 

現在に生きる遊牧民(ノマド)―新しい公共空間の創出に向けて

現在に生きる遊牧民(ノマド)―新しい公共空間の創出に向けて

 

  最近では、こうした社会運動によって新規の社会性や関係性を構築することこそがデモの本質なのだとする考え方も有力になってきました。デモが何を達成するかが重要なのではなく、社会のメジャーコードとは異なるコードをデモを通じて生み出していくこと、それによって、それまで分散されていた個人をつなぎあわせ、新たな一体性を作り出すようなイメージです。

 こうした「ポスト新しい社会運動論」や「新しい・新しい社会運動論」については、邦語では伊藤昌亮『フラッシュモブズ―儀礼と運動の交わるところ』(NTT出版)、同『デモのメディア論』(筑摩選書)、五野井郁夫『デモとは何か』(NHKブックス)などに詳しいので、関心を持った方はそちらを当たって下さい。最近では、こうした議論を「カウンターデモ」に当てはめて解釈しようとするものもあります(富永京子「社会運動の変容と新たな「戦略」―カウンター運動の可能性」、山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代』、岩波書店)。 

フラッシュモブズ ―儀礼と運動の交わるところ

フラッシュモブズ ―儀礼と運動の交わるところ

 

  

デモのメディア論―社会運動社会のゆくえ (筑摩選書)

デモのメディア論―社会運動社会のゆくえ (筑摩選書)

 

  

「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義 (NHKブックス No.1190)

「デモ」とは何か―変貌する直接民主主義 (NHKブックス No.1190)

 

  

奇妙なナショナリズムの時代――排外主義に抗して

奇妙なナショナリズムの時代――排外主義に抗して

 

 

これからの議論 

 以上のようにごくごく大雑把にデモについての政治学・社会学での議論を俯瞰してきましたが、それでもどこか腑に落ちない点も少なくないように思えます。とりわけ、今回の一連の安保法制反対デモについては、以上の議論のどこからどこまでが当てはまり、どこからが当てはまらないのか、これから冷静に議論していく必要があるように思えます。

 その中で押えておくべきポイントは、1.デモ等の直接的な政治参加は、先進国と比較して日本では低調なままだった、2.90年代を通じて現在までいわゆる政治的有効性感覚(自分の声が政治に反映されているという意識)も低かったこと、3.原発再稼働に反対する「官邸前デモ」以前から、2000年代に入って「街頭の民主主義」が日本でも散見されるようなっていたこと、4.日本の青少年の政治意識は決して低くない一方、それが政治的な実践となって表出していかなかったことなどが、ヒントになるかもしれません。

 また、先進国では当たり前のようになっているデモが持つ独特の祝祭性(お祭り、祭を通じた共同意識の醸成、楽しさ)の萌芽がみられるのも、重要な点だと思います。最近では、イタリアの五つ星運動(M5S)、スペインのポデモス、ドイツ・スウェーデン海賊党など、社会運動と政治運動が、それこそシームレスにつながっている政治空間も広がっています。日本でもそのような局面が訪れないとも限りません。

 何れにしても、ここ日本でも、デモは正当なものとして、政治参加の重要な手段のひとつとして定着していくことは間違いがありません。民意を表出する回路は多様である方が良いわけですから、そのことは歓迎されるべきことです。これは拙著『感情の政治学』(第4章)でも指摘したことですが、「方法論的個人主義」に基盤を置く社会科学において何のつながりや利益も共有していないような人々が行う「集合行為」はひとつの「謎」として捉えられてきました(いわゆる「フリーライダー問題」)。

 いや、デモは謎なのではなく、ひとつの必然でもあるのだ、と早く言えるようなツールや解釈の枠組みを作って行ければと思っています。その上で必要なのは、これまでの古びたイメージでもってデモを持ち上げるのでも、揶揄するのではなく、そのメカニズムと強度がどのようなものなのかを見極めることにあることは論を待ちません。

 

「野党とは何か」。

1993年の自民党の下野、続いて自公政権の時代、2009年の政権交代選挙、続く2012年の自民党の政権奪取――日本でも、自民党の一党優位体制が崩壊してから一程度の時間が経ちました。

2012年から政権を担っている自民党政権はいまのところ堅調のようですが、少なくとも「55年体制」の時のような安定政権は望めません。それは1960年代に得票率のピークを迎え、2000年代に入ってジュニアパートナーたる公明党の協力なくしては今のような議席を見込めないという厳然たる事実があるのはもちろんのこと、55年体制を外から支えていた冷戦構造、内から支えていた高度成長と工業化も過去のものとなったからです。

「自然な与党」としての自民党が消え去っていくということは、是非はともかく、少なくとも政権交代の蓋然性はこれから高まることを意味しており、与野党の立場は入れ替わっていくことでしょう。

このことはまた、議会制民主主義における「野党」とは何であるのか、何をなすべきなのか、どうあるべきなのか、ということを理論的・概念的に考えないといけない時期に、日本も差し掛かってきているといえる筈です。

日本では「ゆ党」や「与党内野党」といった言葉も散見されますが、特定秘密保護法案をめぐる「みんなの党」と与党との関係、集団的自衛権・安保法制をめぐる維新の党・公明党の距離、あるいは民主党維新の党との選挙協力の在り方、地方選挙で安定した議席数を獲得している共産党など、果たして野党はどのようにあるべきなのかということについては、大きな多様性があります。そうした多様性を反映してか、その局面や状況で何が野党なのかということについて場当たり的で一方的期待や見方ばかりが流通していて(「野党なら対案出せ!」「野党なら反対しろ!」「野党なら黙っていろ!」等々)、それでは何をもって野党とするのか、それが本来果たすべき機能とは何であるのか、ということについては、体系的な観方は提供されてきませんでした。

もちろん例外もあります。かのロバート・ダールによる『西欧における野党』(1966年)は野党研究のダッシュボードとなりました。 

Political Oppositions in Western Democracies

Political Oppositions in Western Democracies

 

マイルストーンとなったこの研究でダールは、野党とは何かということについて、かなり複雑な概念定義を試みていますが、もっとも包括的な野党の定義として「特定期間に統治する主体Aに対して、統治しない主体Bのこと」だとしています。

ただ、これだけでは、野党の機能や役割について全てが明らかになったは思えません。特に、その野党が政権参加・政権交代を目指すのか、あるいは与党の政策や方針を修正・撤回させることを目的とするのか、政治システムそのものの転換を目論むのか、議会に陣取る政党なのか、議会に足場を持たない組織なのかどうかといったことを基準とした場合、野党のイメージはもっと膨らむことになるでしょう。

実際、現実政治の場において1960年代になって多くの先進国で戦後続いた保守支配が終わり、社民政党政権交代が珍しくないものになっていくとともに、ダールの切り拓いた「野党研究」の潮流は、低調になっていきました。以降も、翻訳のあるコリンスキー編『西ヨーロッパの野党』(原著1987年)、現在では集中的に野党を研究対象としている数少ない政治学者ルドガー・ヘルムズのものなどを除けば、ダールが切り拓いた地平は、さほど発展しているとは言えないのが現状であるように思います。 

西ヨーロッパの野党

西ヨーロッパの野党

 

  

  

Politische Opposition: Theorie und Praxis in westlichen Regierungssystemen (Universitaetstaschenbuecher)

Politische Opposition: Theorie und Praxis in westlichen Regierungssystemen (Universitaetstaschenbuecher)

 

日本にあっては、先に言ったように「野党とは何か」ということを考えなければならない状況に(ようやく?)なってきたのに対し、研究状況も盛んとは言い難くありました。そのような欠落を埋めたいという趣旨から、この度多くの研究者の方々の協力と論文からなる『野党とは何か――組織改革と政権交代の比較政治』(ミネルヴァ書房)と題した本を編纂しました。

この本の目的は、序章にあるように、「野党とは何か」という、それ自体は漠然とした問いに対して、具体的な各国の歴史と事例を通じて、答えることにあります。

章題と節を含む、本の構成は以下の通りです(刊行のものと若干異なる可能性もあります)。

 

はしがき――「否定形」「揺らぎ」「普遍化」の中の野党

 

序 章 野党とは何か――「もう一つの政府/権力」の再定義に向けて

(吉田 徹)

 野党という存在  

 野党定義の困難さ 

狭義の野党、広義の野党  制度的に規定される野党

 「ウェストミンスター・モデル」における野党  5

いくつかの野党のパターン

バジョットの見た野党

「野党」の普遍化  

「カルテル政党」化していく野党

「パーリア政党」の消滅

 「野党性」の範囲――イギリス  ドイツ  フランス  アメリカ  スイス

 「アクター」「機能」「アリーナ」による野党類型  

野党を導く変数

「野党性」の確定

 組織変革からみる野党

政党の「制度化」の強弱

本書の構成 

 

第1章 イギリスにおける反対党の党改革と応答政治――「ブレア革命」の再検討  

(今井貴子)

 政党とデモクラシーの現在  

代議制デモクラシーにおける反対党の意義  

本章の射程

 代議制民主主義と反対党  

イギリスにおける反対党の歴史的地位

権力抑制装置としての反対党

イギリスの反対党の特徴

 反対党の機能を支える制度措置――地位の保障 金銭面での支援 政策立案上の支援 政権移行(トランジション)過程の支援

 事例研究――長期低迷期労働党の組織改革  

労働党の組織改革の歴史的背景

「ブレア革命」以前の改革

党大会の改革

ブレア党首の誕生

強力な指導部の構築

選挙プロフェッショナル政党化と応答政治

党本部と党首室の接続

「大衆の党」への変質

 中央への資源の集中と総選挙マニフェストの作成  

党指導部への資金と専門知の集中

マニフェスト立案過程

党内の反対意見の遮断

 応答政治と党の寡頭制化が生んだパラドクス  

 

第2章 ドイツ国民政党の二つの野党期――野党改革は今なお問題か

(野田昌吾)

 野党改革の黄金時代  

SPD――ゴーデスベルク綱領と組織改革

CDU――「同盟」から「党」へ、「第二の結党」

カオスと「成功した失敗」――SPD、一九八二~九八年  

新基本綱領の制定

指導者の不在と統合問題の悪化

一九九八年選挙での勝利への道

成功なき成功――CDU、一九九八~二〇〇五年  

野党改革の時代の終焉?  

 

第3章 フランス二大政党の大統領制化――動員様式をめぐる収斂?

(アンリ・レイ、吉田徹)

フランスの野党

長いゴーリスト支配

「二極のカドリーユ」

ハイブリッドな政治体制のもとの政党

小政党の自律性

議席数と動員力のギャップ

政党類型の可能性と限界

「ミリタン政党」と選挙民政党

「大統領制化」による生存

社会党の組織――一般的特徴 有権者と支持者 党員 党活動家(ミリタン)

組織改革と動員様式の変容

ゴーリスト党の組織――一般的特徴 有権者と支持者 党員 党活動家  

組織改革と動員様式の変容

「大統領制化」の中の共通点と差異

 

第4章 野党なき政党の共和国イタリア――二党制の希求、多元主義の現実

(池谷知明)

第二次世界大戦後のイタリア政治

イタリア政治・政治学における政党――第一共和制・第二共和制

第一共和制の政党政治と野党  

ファシズムの共和国 

聖俗・南北・左右の対立軸

極端な多元主義・不完全な二党制・政党支配体制

野党なき第一共和制の終わり

第二共和制の政党政治

選挙制度改革――ゲームのルールの変更

政党の交代

政権交代・二極化と野党の不在

二〇〇五年選挙法と政党破片化

民主党

オリーブの木から民主党

民主党のためのマニフェスト

民主党の結党

二〇〇八年選挙と民主党

民主党の敗因

野党戦略の失敗

民主党の限界と課題

野党なき第二共和制

テクノクラート内閣――政党なき大連立

再び「不完全な二党制」

二〇一三年選挙と五つ星運動

大統領選挙

連立政権と高まる政党の流動性

特異なイタリア政党政治

多元的なイタリア政治社会

多元社会とウェストミンスター・モデル

 

第5章 ベルギー分裂危機への道――フランデレン・キリスト教民主主義政党の党改革

(松尾秀哉)

党改革と分裂危機

ベルギー政治の概要

ベルギー政治の概要

ベルギーにおけるキリスト教民主主義政党

先行研究と方法論

先行研究と問題の所在――多極共存型民主主義における野党の意義

党改革の類型

党改革の背景

党改革の過程

前提としての自由党の党改革

CVPの党改革――進展と停滞の二側面

党改革の停滞

野党時代の党改革――「顔」の交代から綱領の刷新へ?

フランデレン主義に傾く政党  

野党時代の党改革

帰結としての分裂危機

野党であることの「自己定義」

 

第6章 アメリカ・オバマ政権の誕生とその含意――「草の根」の動員過程をめぐる考察

(石神圭子)

オバマの登場と「草の根」の組織化

新たな「草の根」動員の「成功」とその背景

コミュニティ・オーガニゼーションの発展

労働組合との連携

コミュニティ・オーガナイジングの歴史と理念

「組織化」の歴史的視座

「組織化」の理念的基礎

「組織化」における参加と説得の意味

コミュニティ組織と「公的空間」の希求

「保守の時代」の組織化「運動」

政党主導の集票戦術と「動員」に潜む問題

二〇〇四年選挙における「キャンヴァシング」の展開

「組織化」と二〇〇八年選挙の意味

「組織化」とは何か

 

第7章 日本における民主党政権交代への道――政策的許容性と包括性

(木寺 元)

政党組織管理

政治家の行動目標

政党所属と政党戦略

政策的許容性と包括性

離脱と発言

新進党という壮大な「失敗」 

政策的許容性

包括性

民主党の誕生――一九九六〜九八年

政策的許容性

包括性

オリーブの木」としての民主党――一九九八〜二〇〇六年

政策的許容性

包括性

小沢一郎代表就任以降の民主党――二〇〇六〜〇九年

政策的許容性

包括性

民主党の隘路

 

序章では、上述のような問題意識から、野党についての先行研究や現状、定義の紹介、また本書ならではの独自のモデルを提唱しています。続く各国の実証部分では、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、アメリカ、日本の7カ国について、現代を中心として、その国の野党がどのような存在で、どのような自己改革や組織改革を行って、その趨勢がどうであったのか、という多様なパターンが示されています。

副題にあるように、分析比較の視角として据えたのは潜在的に政権交代を目指す政党が、どのような組織改革を行って行ったのかというものです。このように視角を設定してしまうと、多くの院外(議会外)勢力を排除することになり、また選挙そのものを起点としないため、不十分に感じられるかもしれません。ただ、どのような研究であっても、特定の視点を採用しなければ何も説明できませんし、また7カ国のそれぞれのケースに応用可能な視点がなければ、比較も可能になりません。

バリエーションに富む各章を読めば、少なくとも野党は政権交代を目指すだけの存在ではなく、それ自体の改革や方針転換だけで政権交代が実現するとも限らず、政権に預かった瞬間にそれまでの長所が短所になったりすることもあったりと、その国の政党政治・民主主義の特性によって、野党の在り方も大きく可変的なものであることが理解できるかと思います。そうした意味では、野党を考えることはその国の民主主義を考えることもでもあり、また、その国の民主主義を考えることは野党を考えることでもあるといえるのでしょう。

以下に本の「はしがき」を転載します。

 

『野党とは何か――組織改革と政権交代の比較政治』(ミネルヴァ書房、2015年)

 はしがき――「否定形」「揺らぎ」「普遍化」の中の野党

 野党は、民主主義体制にとって欠かせない存在といえる。それは、野党が果たす機能とは、まず与党権力に対して修正や撤回を迫り、いわば政治における「決定」の次元に対して「合意」と「討議」の次元を作り出すことを使命とするからだ。また、与党権力による政治決定が行き詰ったり、破綻したりした場合、選挙およびその他の権力交代の手段を通じ、その政治体制での権力主体のオルターナティブとなり得る。さらに、野党の存在自体が多様な民意を、多元的な回路でもって政治の場に反映することを試み、結果として、場合によっては体制の正統性や安定性に寄与することになる。

 このように、民主主義にあって野党は重要な機能と役割を果たし得る存在である。それにも係らず、野党とはいかなるものなのか、いかにあるべきなのかといった点について、国内外を問わず、政治学の領域でも、必ずしも体系的な考察の対象とはなってこなかった。その欠落を埋めようとするのが本書である。

 野党が集中的な検討の対象になりづらかったのには、様々な要因が影響している。その理由を、ここでは差し当たって「否定形」、「揺らぎ」、「普遍化」の三つのキーワードで説明してみたい。

 1.「否定形」としての野党――野党それ自体は、往々にして政治や政策形成の主体として認識されにくい。それは与党と比較した場合にはとりわけ、いわば日陰の存在とみなされてしまうからである。言い換えれば、野党とは「与党ではない政党」という「否定形」という形でしか規定できないものへと還元されてしまう。しかし、これでは与党の政策に影響を与えたり、修正を施したり、押し戻したりするような、野党の果たすことのできる積極的な役割を視野に入れないことになってしまうことになる。

 2.「揺らぎ」としての野党――序章で検討されるように、野党を積極的に定義することは簡単ではない。一口に「野党」といっても、そこには政治体制そのものに異議を唱えるようなラディカルな野党もあれば、政策に応じて与党との協議や調整を担う野党もあるだろう。また、意識的に政権交代を目指す野党もあれば、政権との距離を取り続けることで存在感を示す野党もある。日本で従来の「与党」にも「野党」のイメージに当てはまらない「ゆ党」という言葉が用いられてきたのも、野党とは何であるのかという、こうした「揺らぎ」を端的に証明するものといえる。実際には、政府与党の政策に原理的に反対することだけに留まる野党というのは、それほど一般的であるわけではなく、特に議会での有意な政党であれば、事の大小に応じて、何らかの形で与党との接触や協力関係を結ぶことは珍しくない。そう考えた場合、野党はかなり幅広くグラデーションを描く政治的な主体である。そして、その野党がどの色をまとうのかは、経験的に把握されるべきだろう。

 3.「普遍化」した野党――一九六〇~七〇年代以降、さらにポスト冷戦期となって、多くの国では政治体制をめぐる広い政治的対立といったものは後景に退き、体制や政治原理に異議申し立てを行うラディカルな野党といった存在は、先進国では消滅しないまでも、少なくとも希少なものになっていっているように見受けられる。それに代わるかのように目立つようになったのは、政権交代を目指して「政権担当能力」を有する政党であることを意識的に目指す野党である。これは、政権交代が政治経済レジームの転換を意味せず、与野党の入れ替わりが有権者にとっても受け入れやすいものとなり、両者を隔てる境界線が流動的なものとなってきたことを意味する。与野党を隔てるハードルが低くなる中で、国によっては戦後政治において自然な形で与党だった政党が下野するといった事象も生じ、野党はより一般的なものとして経験されるようになった。しかし、こうした現象があることで、野党という比較的わかりやすかった外延もぼやける結果となった。

 それでは、このように「否定形」、「揺らぎ」、「普遍化」の中に置かれる「野党」を主語とした政治学は成り立つのか――その答えは当然ながら「是」であると執筆者一同は考えるが、最終的な判断は読者に委ねたいと思う。

 本書の成り立ちについて言及しておきたい。

本書の企画のスタート地点となったのは、二〇一〇年度日本政治学会分科会(C2)「野党改革の比較政治」である。編者が企画した本分科会では、本書にも執筆している各氏が「アメリカ民主党:「草の根」の動員過程をめぐる一考察」(石神圭子)、「イギリスにおける野党の組織改革と政策形成過程」(今井貴子)、「野党改革は問題か?――ドイツ社会民主党キリスト教民主同盟の政権復帰」(野田昌吾)と題した研究報告をそれぞれ行った。その際、分科会で司会および討論者を務めていたいただいた竹中治堅氏、討論者の高橋進氏、そしてコメントや質問をお寄せいただいた会員諸氏に感謝申し上げたい。

 当時、編者の念頭にあったのは二〇〇九年に民主党による政権交代選挙が実現し、「自然な与党」として君臨していた自民党が下野した政治状況であり、その後の展開がどうなるにせよ、日本でも与党と野党が入れ替わる政権交代の蓋然性は、少なくともそれまでよりも高まっていくように思えた。ここから、新たなステージを迎えた日本の政党政治における野党の在り方を、各国比較を材料として投射してみたいというのが、分科会企画の趣旨だった。

 その後、上記報告の土台となった3本のペーパーがブラッシュアップされ、これにフランス、イタリア、ベルギー、日本の事例を加えて、計7カ国の野党が検討されることになった。これらの国々は、それぞれに異なった形で議会制民主主義の実践をしている。そのような多様性の中に野党を置くことで、その機能と役割もまた多様であることを、強調したかったからである。

 しかし、実際に比較をする際には、何らかの分析的視点を持たなければならない。そこで、比較においては、それぞれの国における野党期の組織改革を視点に据えることにした。詳細は序文に譲るが、デュヴェルジェ著『政党社会学』を引くまでもなく、政党の類型や志向は、その政党の政治的位置だけでなく、組織的特性を把握することによって、より良く説明できる。確固としたリサーチ・デザインやモデルを作り上げることは端から目指されていなかったが、それでもどのような組織・制度改革がなされ、それがどのような成果を生んだのか、あるいは生まなかったのかという点については、各章での共通の視座になっている。

 一読すればわかるように、これらの国の野党性や組織改革の在り方は、かなりバリエーションに富んでいる。各国野党を分析する際の接近手法や時代区分も執筆者に一任されたのが理由のひとつだが、それはその国の野党の特徴を過不足なく抽出し、より正確に理解するための意図的な選択でもある。そこに表れる野党の多様性は、その国の民主主義の在り方と歴史の多様性がそのまま反映されたものなのである。

 最後になるが、こうした野心的な企画を引き受けていただいたのはミネルヴァ書房の田引勝二氏であった。企画は出来上がったものの、実際には執筆者の国内外での移動・移籍や、生活上の已む得ない事情、あるいは予測できない分析対象国の現実政治での展開もあり、刊行に漕ぎつけるまでにはかなりの時間を要することになった。遅々として進まない企画を辛抱強くフォローし、最後の大事な局面で見事なエディターシップを発揮いただいた田引氏に感謝したい。

 野党という存在がどのようなものであるのかは、規範的にも、経験的にも導くことができるだろう。そうであることを承知した上で、では、どのような野党と野党イメージがこれから作り上げられていくべきなのか――本書がそのことを考える一助になれば、というのが執筆者一同の願いである。

編 者

 

以上です。

ここでも触れていますが、本の企画の発端となったのは、編者が企画した2010年の日本政治学会の分科会でした。ただ、その企画を思いついたのは、2009年に民主党が下野したことに伴って、これからは野党についての視点が必要になると感じた時からでした。これは、自民党支持とか、民主党支持とかに関係なく、日本の民主政治を考える上での不可欠な作業であるという確信から来ていました。ちょうど同じタイミングで、ある新聞記者の方から野党論についての企画をしたい、という相談などもあって、我が意を得たりと思った次第です(その企画は様々な事情から実現しませんでしたが)。

考えてみれば、2009年に公刊した『二大政党制批判論』(光文社新書)、2011年に公刊した『ポピュリズムを考える』(NHK出版)のように、人口に膾炙する、重要な政治上の概念であるのにも係らず、学術的には必ずしも十分な検討の対象になってこなかったものを集中的に取り上げてきました。「野党」という存在と概念もまた、同じようなものだと考えています。

90年代の政治改革の時と同じように、「木を見て森をみない」議論、すなわちその時々の制度や動きに反対か賛成かで右往左往するのではなく、まずあり得べき政治や議会の在り方をイメージした上で、個別の制度や組織に反対か賛成なのかを決めるべきでしょう。野党もまた、そのような存在であるべきだと思っています。この本がそのための手がかりとなればと願っています。

写真家サルガドの旅道。

いよいよこの8月に映画『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』が封切になります。

salgado-movie.com

www.huffingtonpost.jp

この映画は、かねてからのファンであった写真家サルガドと『パリ、テキサス』(1984年)から数えて、沢山の作品で魅了されてきたヴィム・ヴェンダースのコラボという意味で私にとって願ってもない映画となりました。

それ以上に、縁あって、この映画の字幕を監修するという栄誉に恵まれ、神々の競演を少しでもお手伝いできたことを心から嬉しく思っています。ちなみに映画は、フランス語に英語にポルトガル語にと混ざっていて、翻訳者としてはかなり大変だったのではないかと思います(私自身は他人の訳にケチをつけるだけの役回りです)。

内容は、サルガドの作品と半生を軸に、彼自身や家族の証言をつづっていくという地味な作品に仕上がっていますが、サルガドの朴訥で訛りの強い語りもあって、観ていて自然に引きこまれていく魅力があります。今年のアカデミー賞のドキュメンタリー部門でノミネートされてもいます。

サルガドについては改めて説明するまでもないかもしれませんが、1990年代の初めに、確か渋谷のBunkamuraミュージアムでの展示を見に行って以来、最も好きな写真家の1人となりました。2000年代に入ってからですが、彼が来日した時の個展にも足を運んでサインしてもらった写真集は家宝です。

サルガドの写真の魅力はどこにあるのか。一言でいえば「人間の尊厳の活写」にあるのだと個人的には思っています。

私が彼の作品集で最も好きなのは、出世作の「労働者たちーー工業時代の考古学」です。この作品群には、南米や東南アジアの、鉱山や解体所で文字通り額に汗をして働く人々が数たくさん納められていますが、1人1人が本当に姿美しく、写っています。それは決して、労働を通じた人間の輝きなんて陳腐なものではなくて、過酷な環境や労働条件の中でこそ人間性が問われ、そうした局面に置かれた人々は嫌がおうなく、むしろ人間性を背負って生きることになるーーそんな姿をサルガドの写真は映し出しているようにみえてなりません。 

Workers: An Archaeology of the Industrial Age

Workers: An Archaeology of the Industrial Age

  • 作者: Sebastiao Salgado,Eric Nepomuceno,Lelia Wanick Salgado,Philadelphia Museum of Art
  • 出版社/メーカー: Aperture
  • 発売日: 1996/11/01
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サルガドの余りにも美しすぎる写真の構図が、その視線をさらに引き立てます。彼を世界的に有名にした写真集「サヘル」は、移動を強いられる難民・避難民を主人公にしています。中に、森の木漏れ陽の中で休息をとる彼らを捉えた一枚がありますが、まるで聖書に出てくるワンシーンかのように息を呑むほど美しい陰影と構図です。そこには安易で一方的な同情や人道主義をはねのけるような逞しさが被写体に宿っています。もちろん、こうした写真は悲惨な状況で撮られたもので、サルガド自身も映画の中で、これを撮影するためにした経験ゆえに、もう世界を旅するような写真を撮ることは止めた、と証言しています。

想像を絶する悲惨な状況をいかに美しく切り取ってみせるか。環境に置かれた人間の美しさは、こういう所から出てきているようにも思いますし、ドキュメントと作品を望みうる極限で合致させているのがサルガドの作品の魅力だと改めて思います。

Sahel: The End of the Road (Series in Contemporary Photography, 3)

Sahel: The End of the Road (Series in Contemporary Photography, 3)

  • 作者: Sebastiao Salgado,Orville Schell,Eduardo Galeano,Lelia Wanick Salgado,Fred Ritchin
  • 出版社/メーカー: University of California Press
  • 発売日: 2004/10
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agonistica.com

もともと彼は農業経済のエコノミストでもありました。映画の原題は「地球の塩=Salt of the Earth」ですが、これは人間のことを指しています。塩は大地から生まれ、害にもなれば、助けにもなる。そしてまた大地に帰っていくーーサルガドは母国ブラジルの出身の地で、現在、植林事業環境保全のための財団を立ち上げて活動していることも映画では紹介されます。これが最新のアルバム『ジェネシス』にもつながっています。

Sebastiao Salgado. Genesis: Trade Edition

Sebastiao Salgado. Genesis: Trade Edition

 

サルガドが設立した財団「Instituto Terra」

:: INSTITUTO TERRA - WELCOME - Official Website ::

 彼の最初の作品は、南米大陸の旅から始まりました(『もうひとつのアメリカ』1986年)。

Other Americas

Other Americas

 

 南米から彼の旅は始まり、ぐるっと世界中をまわって、また再び南米の地に戻ってきたというわけです。もう彼は世界の悲惨な人々を撮ることはないでしょう。なぜ人間から始まった彼の旅が、大地へと帰結することになったのか。ロードムービーこそを得意としてきたヴェンダースがサルガドの旅道を辿っていった理由も、映画を観れば納得できるのではないかと思います。

是非劇場に足を運んでみてください。

大学での政治の「教育」を考える。

先のBlogosのエントリに日比嘉高「「自民党サークル」はありなのか――18歳選挙権と大学の中の政治」がありました。

ここで日比氏は、一般論として大学生が政治に関心を持つことは良いことだとしつつも、「政治団体が直接的に大学のキャンパス内の政治活動に関わってくるような事態については、私は大きなためらいと不安を感じる」として、その理由として、まだ大学生に政治的な免疫がなく、その結果として「学内で政治活動が高まったときに、何が起こったかもまた知っている」と、過去の学園紛争のことをあげています。

大学教員として、大学生を心配する気持ちは非常によくわかります。それでも、このエントリには少なからず違和感を持ちました。

 

まず、議論の整理が必要です。

日比氏は、「自民党のサークル」であることに警戒を抱いているようですが、しかし学園紛争時代の学生運動は、むしろ反体制的な政治組織がほとんどでした。与党組織が大学生を組織しようとした場合、どちらかといえば、大学生を時の政府の政策の理解を求め、そのリレー役を期待するでしょうから、それゆえ示唆されているような暴力志向にはなりずらい筈です。

また、政党のサークルが18歳選挙権を機に突如として誕生するかのような指摘がありますが、それも事実に反します。私が大学生の頃から、自民党系、共産党系、公明党系などの政治サークルは現に存在していましたし、今でも存在します。むしろ、こうした青少年を対象とした下位組織をきちんと持っていることこそが、政党政治においてヘゲモニーを握るために非常に重要だということがわかっているからこそ、自民党という政党の相対的な足腰の強さがあるのだと思います。

政党だけでなく、ありとあらゆる結社や団体が大学での組織を作っているアメリカやヨーロッパを知っていると、なぜ特段政党のサークルを危険視するのか、理解しかねる部分があります。もし与党のサークルだから危ないというのであれば、それは自由な政治活動を排除することになり、本来であれば、どの政党であろうが、自由に大学の支部を作るのが健全なことだと考えます。

次の点として、このエントリで思い出したのは、Blogosでの別のエントリでした。

ここで紹介されている文部省(当時)の通達は、高校での「政治的教養」の大切さを説きながらも、過度の政治的活動は好ましくなく、一定度の常識的な政治活動をするよう行うべし、というのが主旨になっています。全く方向は異なっているようではいても、「限られた範囲で良心的な政治活動なら認めるが、そうでないものは認めがたい」という、都合の良い政治活動観が優先している感じがあることは否めません。

ひとつエピソードを紹介します。

以前、大学での学生委員というのをやっていましたが、その際に大学内のパソコンでのファイル交換ソフトの使用が委員会で問題視されました。大学のパソコンで著作権に違反するようなダウンロードがあったと、著作権協会からの指摘があった、というのが事務方の説明でした。その結果、学生委員会は、事務方の提案に沿って、大学内のパソコンで交換ソフトを利用することを禁止することを決定しました。

私はこれに反対をしました。なぜなら、問題はファイル交換ソフトがインストールされて、それを利用することではなくて、違法な形でファイル交換をすることだからであり、それは人を殺す可能性があるから自動車の免許を与えないという論理のようなもので、本来の教育とはいかにファイル交換ソフトを適切に使いこなすかを教えることだからです。交換ソフトがどのようなメカニズムやマーケットのもとで動いているのかを知らないままに社会人を送り出すのでは、大学として全くの責任放棄であるとすらいえるのではないかーーそんな意見でしたが、もちろん、この種の委員会では予めの方針通りに事が運ぶのがおおよそなので、私の意見は聞き入れてもらえませんでした。

話を戻すと、先のエントリは、この大学の事務方の懸念と似ているのではないでしょうか。危ないからそこには触れさせないーーそうではなく、本来の政治教育とは、いかに政治が危ないものでありつつも、しかし私達の社会を創り上げ、運営するためには不可欠なものであるかを教えることにあるはずです。

政治にどっぷりつかりすぎるのもよくなければ、それに無関心であることもいけない。もし主権者としての教育をいうのであれば、必要なことは、それとの距離を主体的に決めれるような政治的な思考であるーーそれこそが、多くの政治学者が教えるところです。 

シティズンシップ教育論: 政治哲学と市民 (サピエンティア)

シティズンシップ教育論: 政治哲学と市民 (サピエンティア)

 

 

政治的思考 (岩波新書)

政治的思考 (岩波新書)

 

 

 日比氏は言います。

「新入生の不安定さにつけ込み、政治的な信条を植え付け(「オルグ」し)、利益誘導し、生活を巻き込み、そして卒業後の進路や思想までもコントロールしようという試みに見えてしまうのだ。「党員」にするとは、そういうことだ。」

しかし、政治学者としていえば、こうした行為はまさに政治に欠かすことのできないひとつの性質です。例えば、新入生が議員インターンシップをやるようなことも含めて、それは唾棄すべきことではないでしょう。

少なくとも、政治的主体とのインタラクションがなければ、その主権者はどのような信条を持つべきか、どのように自分の利益を定義し、どんな思想を持ち、その思想を広めるためにどのような組織と付き合うのかを決めることはできないでしょう。無から政治は生まれません。もっといえば、比較した場合、日本の主権者は政党や政治組織との関係性が薄いゆえに、政治不信が高い度合いに留まっているといえます。

大学生は政治とは無関係でいられるかもしれません。しかし、政治は18歳だろうがそうでなかろうが、大学生だからといって放っておきません。240万人の新たなマーケットが誕生するからです。そうであれば、まずは政治を端から忌避しないこと。意は尽くせませんが、それが18歳で主権者になるということの意味、大学ができる主権者教育のひとつなのだろうと思います。

「内山秀夫遺稿集刊行委員会」御中

謹啓

 惜春のみぎり、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。

この度は編『内山秀夫 いのちの民主主義を求めて』(影書房)を御恵投いただきましたこと、厚く御礼申し上げます。

刊行に当たっては、これまで何度か電子メールでやりとりをさせて頂いておりましたが、遺稿集作成の期間にちょうど在外研究中で身動きがとれなかったこともあり、何のお役にも立てなかったことを、まずは深くお詫び申し上げます。

それ以上に私が内山先生と知り合いになったのは、それほど長い期間ではなく、初めてお目にかかったのが1994年頃のこと、慶応法学部をすでに退職される間近のことだったと記憶しています。その後、新潟国際情報大学の学長になられた時に市内のご自宅に仲間の何人かとお邪魔させていただいたことがあり、その他にはやはり大多数で1、2回酒席(川原彰先生を介してだったか)をともにさせていただいた位の経験しかありませんでした。その程度の人間が内山先生の遺稿集作成に携わるのも恐れ多いという考えもありました。

ただ、それでも先生は当時の私にとっても人としての強烈な印象を残しました。その印象は、こうして先生の書かれた膨大な文章を拾い読みしても変わりません。ご自宅のトイレに太平洋戦争のフィクションものが詰まれていたり、キッチンから山のように缶ビールを出してきたり、誤訳の指摘にも丁寧に応じてくれたり、とエピソードは色々ですが、優しさの中の厳しさ、柔らかさの中の鋭さ、頑固さの中の柔軟さ、厳密さの中の曖昧さ、絶望の中の楽観さなどが、文章からも感じ取ることができ、それはそのまま私が感じた先生のお人柄と直結しています。

これまでも折に触れて内山先生の書かれたものを拝読する機会はありましが、こうしてまとまった形で読めることは大変に有難く、そのような労をとられた長谷川様とお仲間の皆様に感謝せざるを得ません。研究者だけでなく、弟子というよりもゼミ出身者がまとめられたというのも、内山先生の何よりの遺産かもしれません。

私も政治学者の端くれとして日々悩んでいますが、その中で自然と、物事や状況と馴れ合って、思考をとめてしまっている瞬間があります。内山先生はおそらくそのような馴れ合いを許されない経験を生きておられたのだと察しますが、そうした意味で、政治学者として今のタイミングで先生のものを再読して、改めて、この学問が目指すべきところのもの、大事にすべきもののところを諭してもらったように(あるいはそれを考えるべきと誘ってもらったように)感じました。そうした意味でも御礼を申し上げたく、一筆させて頂きました。

全てを意に尽くすことできませんが、略儀ながら書中にて御礼申し上げます。末筆ながら、寒暖激しい折、どうぞご自愛を下さいますようお祈り申し上げます。

謹白

 

いのちの民主主義を求めて

いのちの民主主義を求めて

 

(以上は、本をお送りいただいた内山先生のお弟子さんのお一人にしたためたお礼状の写しです。 内山先生の文章をめくっていくと、「人間」という言葉に何度も出会います。人間を信じ、人間に傷つき、それでもなお人間をあきらめないというのが、内山政治学の根本なのではないかと、改めて感じます)